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真珠様皮膚変異硬化症。通称真珠病。
ここ30年で発症率が大きく上昇している疾患で、アジア人は欧米諸国よりも発症率が比較的高く200人に1人が罹患するとも言われている。お兄ちゃんもそう診断された。あの朝、お兄ちゃんは近所の病院を受診して、すぐに専門病院を紹介された。いくつかの検査の後に、可能であればご家族にも同席いただきたい、と言われたお兄ちゃんと一緒に、こうしてわたしも今日病院を訪れた。
病院の正面玄関を抜けたすぐ目の前の壁には、巨大なアクリル板に真珠様皮膚変異硬化症専門医の紹介と治療実績がびっしりと書かれていた。米国食品衛生協議会および欧州医薬品審査会承認の「ゲノムカタログ治療」の紹介と、その治療認定施設であることが説明されている。隣には認定証が数えきれないくらいの枚数が貼られている。とにかく、日本有数の治療施設なのだろう。10年前はまだ専門施設であることを控えめに掲げていた気がする。
さしこむ光をすいこむような青いタイルがひかれた廊下を進んでいく。途中通り過ぎた待合室で、母娘とおもわれるふたりの女性が看護師さんから「ゲノムカタログ治療」について説明を受けていた。ふたりは好きなアクセサリーのパーツを選ぶように笑いながらカタログをのぞき込んでいた。
「はーい。前田太一さんと前田あかりさんですね。いやー。寒いですね」
私たちが診察室にはいると、お兄ちゃんの主治医だという緒方先生はPC画面から目を離さずにまずそう言った。真夏の室内はエアコンが効きすぎるときもあるからあながち間違った発言ではないのかもしれない。それとも私たちは笑った方が良かったのだろうか。お兄ちゃんは何も言わない。わたしも気が利かないところがあるというかそういう心の動かし方に疎いところがある。少し困って看護師さんに目をやる。彼女は眉をしかめて「緒方先生」とたしなめるように言った。つまり、先生の雑談は失敗していると言うこと。
「あーうん」
変な汗が噴き出した額を医師はぬぐい、それからその手を白衣にこすりつけてから引き出しからファイルを取り出した。2枚めくり、咳払いをする。
「真珠様皮膚変異硬化症です」
説明はとても簡潔だった。
「そうですか」
お兄ちゃんの返事もとても簡単だった。落ち着きすぎだよ、と頬をたたいてやりたくなるくらい。廊下を誰かが歩き去って行く足音がした。それ以外は何の音もしない。この部屋にも隣の部屋にも廊下にも、わたしたち以外はきっと誰もいないのだろう。
「治療はゲノム改変ですか?」
兄はあっさりと続けた。
緒方先生はじっと兄を見て
「さ~すがよくご存じですねぇ」
私は先生とは反対の壁際に置かれた精密そうな機械や周囲に散っている書類の束をながめていた。私の視線を感じ取ったのか、看護師さん、名札に「中林」とあるのが見えた、はそっと書類を集めるとキャビネの中にしまってしまった。見るものがなくなったから早く終わらして兄と珈琲でも飲みたい。うんと美味しいやつ。
病気の説明にあまり興味を持てない。
何故なら兄と私はこの病気の説明を聞くのははじめてではないから。
10年前にお母さんが真珠病と診断された。そして、わたしの家族はお兄ちゃんだけになった。
緒方先生はお兄ちゃんの表情をちらりと見ると、ボールペンの先端で頭をこりこり書いてから続けた。
「まあ。だいたいのことはご存じかと思いますが・・・・・・。リサちゃん、説明資料を・・・・・・」
「緒方先生、名前で呼ばれのはハラスメントではないか、と私は感じますが」
緒方先生は慌てて言う。
「失礼。中林さん。説明資料をお願いできますか」
中林さんは鷹揚にうなずくと、手元に抱えていたファイルから書類を何枚か抜き出すと緒方先生にわたした。先生はそれをお兄ちゃんが見やすいように広げる。「真珠様皮膚変異硬化症(しんじゅよう ひふ へんいこうかしょう)ってなに?」「なんで真珠病(しんじゅびょう)といわれるの?」「遺伝子(いでんし)とは? ゲノムとは?」といったように漢字とひらがなが押し合いをしている。誰にでもわかりやすいでしょ、という顔した文字はお兄ちゃんにはあんまりなじんで見えなくて、うすっぺらく感じた。
緒方先生は兄の様子をみながらさらさらと説明を続ける。
真珠様皮膚変異硬化症、通称、真珠病はゲノムの配列に突然変異が生じることで発症する。指先の先端から徐々に皮膚が真珠のように変色することから始まる全身性疾患。進行すると全身の遺伝情報が書き換わり、皮膚だけではなく目の色や髪の色まで変色する。進行例では骨格および臓器に変化が見られ、両性腫瘍が多発する。多臓器不全に陥る可能性が高い。原因は紫外線量の増加と因果関係があると言われているがまだ研究途上。
「真珠病が特殊なのはいわゆる遺伝子ではなくこれまでほとんど解析が進んでいなかったゲノム情報に突発的な誤訳が発生するんですよ。まぁ、遺伝子とかゲノムとか言ってもわけわかんないと思うので、一瞬で興味がわくものをお見せしましょう。ほ~ら、この画像美しいでしょ?」
と、緒方先生はスクリーンをタッチしてデータを呼び出す。
「うわぁ」
思わず声をもらしてしまう。暗闇に浮かぶ半透明の白い世界。淡く光る小さな粒が集まって珊瑚のような形を作っている。周囲にうかぶかすかに発光する黄緑色の粒は深い闇のむこうまでつづき、ぼんやりと消えていく。
「これは脳の神経細胞の一部なんですよ。きれいでしょぉ。特に! ここ見てくださいよぉ~、我ながらみごとな写真だと思うんですよね。神経細胞をもっともっとアップにしますよ。昔はこんな画像見れなかったんですよっ。ほらほらリポソームが浮かび上がってきて、そしてそして、ここ、この緑の部分、なんだかわかります?」
緒方先生は、うふふ、とこらえきれないように笑みをこぼす。
「先生」
中林さんがひやりとした声でうながす。
「だ、だいじょうぶですよ。つづけますよ。これは先日の学会で発表した画像なんですが、神経細胞に真珠病が進行した事例です」
「脳に?」
「脳に?」
私とお兄ちゃんの声がはもる。私たちの持っている知識は古い可能性はあるけれど、当時、母が診断されたときは手首に進んだだけでもうほとんど猶予はないと言われたほどだった。そのとき言われた内容はちっとも意味がわからなかった。今はあの日の言葉を理解できる。真珠病が進行すると、変異が生じたDNAが起生するタンパク質に異常が生じ、細胞がアポトーシスを起こす。つまり、細胞が死ぬ。そして、母は死ぬ。そのとき、わたしの目の前で先生と向き合っていたお父さんはどんな顔をしていたのかな。
とにかく、そういう風に言われていた症状が脳に達しているというのに無事ですむのだろうか。
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