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「まあ、なんだか真珠病が拡大してもね、致命的な症状を発症しにくくするような、なんらかのゲノム変異を引き起こす要因があるみたいなんですよぉ。それを解明するのが楽しみだなぁ」
緒方先生がにこにこと楽しげに説明する。
だいじょうぶかな、この先生。そもそも患者さんの治療をこんな風に引き延ばしていいのだろうか。インフォーム・コンセントは取得しているのだろうけど。いくら研究のためといっても。
「あ、話しがそれましたね。で、真珠病ですね。タンパク質の設計情報はゲノムに記されているのです。ご存じのとおりヒトゲノム解析はとうの昔に完了しております。幼少の頃から僕は本当にゲノムを読むのが大好きなんです。たった30億の文字情報に人間の設計図が全部おさまっている。すんごいことですよね、ほんと。この画像を拡大拡大拡大~して、ほぉ~らタンパク質。隠し切れない美しさですね。トッカータとフーガのような完璧さ。もちろんこの設計図もゲノムに記された情報をもとに作られます。たとえばですね、22種類の染色体の15番目の情報で瞳の色や肌の色が決定して、まぁ、ひとつで定められているわけではないのでもっと複雑怪奇です。簡単にいえばの説明です。で、この美しいひと揃いの文字情報に誤訳が生じるのが真珠様皮膚変異硬化症、つまり真珠病ですね。このお見せしている画像の白く発光している部分が誤訳が生じた結果、ほころびのはじまったたんぱく質が蓄積された状態です。と、まあ色々病態について説明は済ませましたが、結論として今ではほぼ完治可能な疾患です。真珠病の特徴的な症状として皮膚や瞳、進行すると顔立ちの骨格にも変化が生じることがありますが、もとの形に戻すことは可能です。それじゃ次は治療についての説明いきましょう。分子標的薬や細胞治療というのは聞いたことありますか?」
お兄ちゃんがうなずく。私も知っていた。分子標的薬は遺伝子の異常の種類にあわせて適したものを投薬する治療。細胞治療は改変した遺伝子を体内に戻すような・・・・・・という曖昧な知識は10年前にお母さんが真珠病になったときにお父さんが買ってきたたくさんの本に書いてあった。意味がわからなかった本でもなんとなく覚えているもんだなぁと懐かしく思う。
「ま~、そういうの今じゃ古いですね。この10年で飛躍的にゲノムの医学領域での活用は増えましたからね。今はシークエンサーで異常箇所を特定したら、その箇所に影響をあたえているゲノム情報を『カタログ』検索すれば一発ですからね。うちの病院の専売特許ですね。ゲノムカタログ治療。これってのは特定の遺伝子治療専門医師だけがアクセスできる特殊な治療情報レジストリサイトなんですけどね。簡単簡単。いや~ほんとすごいですよ。ここに載っている情報をもとにゲノムを書き換えるんですよ。なんでもできちゃう。たとえばですねぇ、身長を伸ばしたいとかあったら、この4番目の染色体の・・・・・・」
「緒方先生」
中林さんがささやく。
「あ。もちろん誰でもこのドリーミングな治療の適応になるってわけじゃないですよ。この『カタログ』を基にした治療が全面的に適応になるのは国内では真珠病だけです。なぜならゲノムの異常から発生していることがわかってるわけですから。だから、真珠病の患者さんからはちょっとリクエストを聞いてみたりね、ほら、肌の色も変わってちゃうし進行すると瞳の色も真珠色になるんですよ。だから目の色をどうせなら緑にしたいとか・・・・・・」
「緒方先生っ」
中林さんがぴしゃりとした声をあげる。
「あれ、ごめ。僕またあれしちゃいました?」
緒方先生がおろおろした声をあげる。中林さんはそんな先生にまず冷たい視線をおくり、
「前田さん達もお疲れなんですから」
私とお兄ちゃんに向き直る。頬に落ちた一筋の髪をきっちりと耳にかけて話し始める。
「前田さん、治療方法は緒方先生が説明してくださった通りゲノム改変処置が第一選択ではあります。ですが、ご存じの通り、副作用があります」
はきはきとしたしゃべり方だけど、ちゃんとこちらを気遣ってくれている気配がする。
副作用。
私はお母さんの姿を思い出した。
中林さんは緒方先生が広げたままの書類をめくる。ゲノム改変治療の副反応として記載されているのは「記憶の混乱」だった。なるほど、客観的にはそういう書かれ方になるのか。
そして、思う。
お兄ちゃんと私はなにを失うんだろう。
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