朝顔とパンケーキ

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お兄ちゃんが心配そうに私をみている。 「ごめん。言葉がたらなかった」  お兄ちゃんは言葉を探すように目を泳がせる。堅く握っていた手を開き、右手の薬指に視線を落とした。左手を持ち上げて右手に伸ばしかけたけれど、思い直したように膝に戻す。 「すぐには治療しないということです。その前に準備したいことがあって。つまり・・・・・・失いたくない記憶があるんです」  静かな声でお兄ちゃんはつぶやいた。  緒方先生はかじかみをほぐすように両手をすりあわせ、ふーむとつぶやく。 「それは、治療後の副作用のことを気にされているということですね。なるほどなるほどなーるほど。確かに、副作用は反復される記憶に対して起きやすい傾向は研究からわかっています。どうでも良いような決められた感情にでも副作用を押しつけられるのなら僕ももっと売れっ子になるんでしょうけど、心もゲノムもそう簡単に動いてくれないのがやっかいですねぇ。ご存じか。だから、ご家族との思い出、特に、妹さんとの記憶に影響が出る可能性は高い。自信をもって言えます。影響出ます。おっと、補足ですが、治療の結果、記憶を失う、ということはありません。そうじゃないんですよ。記憶は残ります。あくまで過去を思い出すときに附随するはずの感情が薄れる、というのかな。思い出の中の、出来事に対しての受け止め方が変化するんです。それだけです」  緒方先生は話し足りないところがないか考えを巡らせるように頭を少し右に傾ける。お兄ちゃんはまっすぐに緒方先生をみつめる。 「先生。感情が変化したら、世界は全然べつものになると俺は思っています」  緒方先生はようやくちゃんとお兄ちゃんの目をみた。ふっと息をつき表情をゆるめる。 「あぁ。僕も、そう思っています。本来ですね、遺伝子を変化させるなんて人のやることじゃない。自分に足りないものを相手の遺伝子に求めて、生殖活動を行い子孫をふやし、そうしてやっと達成できるものなのです。それを医療技術で横着するわけです。代償は感情。うまくできてるなぁ~って感心して僕は遺伝子の専門医になったんですけど」 「とにかく。もう少しだけ、考える時間をもらってもいいですか?」  緒方先生をさえぎるようにあわててそう言ったお兄ちゃんのその横顔は、あの日、病院を3人であとにしたときのお兄ちゃんの横顔とおんなじだった。まっすぐに前だけを見ている。10年前、私たち家族が崩壊しはじめたあの日とおなじ表情。お兄ちゃんが忘れたらきっと消えてしまう思いがある。 「構いません。ただ、すぐ治療が始められるように準備しておきたいのと、もし症状が進展した場合はとりいそぎ分子標的薬をつかいます。分子標的薬は変化した部分を治療することはできませんが進行を抑えることは可能です。皮膚および眼球の変色にとどまっているうちは、ゲノム改変で治療可能です。しかし、崩壊が進むとやっかいです」 「崩壊?」  お兄ちゃんが真珠色の薬指を顔の前にかざす。やわらかに光る指先はよく見るとかすかに震えている。緒方先生はお兄ちゃんの指先に顔を寄せる。じっくりと見回すように角度を変えながらみていく。 「あぁ、きれいだなぁ」  中林さんが眉をひそめる。  緒方先生は中林さんが口を開く前に続けた。 「でもね、真珠は永遠じゃないんです。欠けてしまう。そうするともう僕もお手上げです。元にはもどらない。なので、事前にシークエンサーで異常が出ている箇所をみておきたいので検査はすすめましょう。ゲノム情報の総合的な把握にはご家族のデータももらえると良いので、妹さん、えっとあかりさんの方の前田さんにも協力をお願いしたいです。同時に、面談は続けて不安や疑問はひとつひとつつぶしましょう」  そう言いながらいくつかのオーダーをカルテに入力し、お兄ちゃんが気をつけるべきことを示す。 「状態を見る限りあと2週間はそれほど進行しないと思います。ただ、一度進行すると崩壊するリスクが高まる。そうなるともう人工指や義手を検討せざるを得なくなるし、それだけで収まらない可能性が非常に高いです。そうですね。あと3日。3日間は思う存分悩めます」  そう言う緒方先生は少しだけ先生らしい雰囲気だった。 「わかりました」  お兄ちゃんがひとつうなずいた。そのとたん、私の身体からすっと力が抜ける。肩に置かれたままだった中林さんの手の重さに気づく。もう大丈夫です。そう伝えようと思って流した視線の先に、彼女の横顔が見えた。中林さんは、誰にも気づかれないくらい、本当にかすかに、笑っていた。嘲るような笑みがその目に浮かんでいた。
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