朝顔とパンケーキ

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家に帰ったらとても鮮やかに夕暮れがはじまる時間だった。しめきっていた窓をすべて開けてから私はベランダに出て窓のさんに腰掛ける。とおり抜けていく少しぬるい風。すっかりしぼんでしまった朝顔が風にそよぐ。夏のはじまりの朝顔の花はまだ見ることができていない。明日には咲きそうなほころび欠けた蕾がいくつかついていて、お兄ちゃんに声をかけたくなる。ふりむいて呼びかけようとして、やめる。  家にもどってくるなりお兄ちゃんは、日記を書かないといけないから、とつぶやいて部屋に入ってしまった。私は右手をのばし、薬指を眺める。ささくれができているほかは特別なものは何もない。お兄ちゃんの真珠色の指先は、お兄ちゃんをどうしてしまうのだろうか。部屋にこもってしまったお兄ちゃんのために夏のかけらをつかめないか夕空に手を伸ばす。夕暮れに指はすんなりと染まるけど、夏にはふれることもできない。  部屋をふきぬけていく風が床に広げたままのお兄ちゃんの本のページをはらはらめくり、紙のこすれた音を残してどこかにさっていく。  我が家の特徴をひとつだけあげるとすると、それは本だ。それも紙の。大抵の壁にはぎゅうぎゅうに本が並んでいる。ほとんどはお母さんの本だったから、静かにそこに置かれたままの本が多い。私からみたら紙は重いしどこかに連れて行くのも大変だし読みたくてもどこに何があるのか検索できないしで不便で仕方がないけれど、お兄ちゃんはときおりページを繰っている。本の背表紙を目で追って、1冊の本を探し出す。立ったまま、床に座って、ベットの中で。時々そうやってお兄ちゃんは遠くに行っている。お兄ちゃんが戻ってこないのではないか心配を覚えたころから、窓のすぐ側の本棚にはお兄ちゃんの日記帳が置かれるようになった。紙なんてお兄ちゃんが記しているもの以外ほとんどみない。書いたものを念のためにデータにはしているらしいけど、毎日毎日お兄ちゃんは紙にペンで記していく。紙の方が自分の気持ちと近い気がする、とお兄ちゃんは言っていた。意味がわからない。日記はいつでも読んでいいよと言われている。これも意味がわからない。だけどこれはお兄ちゃんの戦略かもしれない。いつでも読んでいいと言われたら興味がなくなってほとんど手に取ったことはない。  だけど、今日の出来事はお兄ちゃんの気持ちを知りたいと思った。そんな風にぼんやりとしていたらいつの間にか夜は来ていた。どれだけ未練があっても今日はどこかに行ってしまう。  翌朝は良く晴れた真っ青な空が広がっていた。かすかな白が風に流されて空にのび、そして消えていった。世界にはなんの不安もない。そう思い込んでしまいそうになる。思いたいだけだけど。お兄ちゃんは朝から病院だった。私も病院に行かなくてはならなくて、ゆっくりとしている時間はあまりない。窓際の本棚には昨日の夜にお兄ちゃんが書いていた新しい日記帳。取り出して手に持ったままキッチンに向かう。冷蔵庫を開けて朝ご飯のスティックを確認したらお兄ちゃんの分はまだ手つかずに残っていた。お兄ちゃんと私はずいぶん長い間料理をしていない。代わりに、それぞれの体質にあわせた食事スティックを取り寄せている。スティックなら固さも温度も栄養素も、各自のゲノムを解析した結果にあわせた最適なものを配送してくれる。昔の映画を見ていると家族が同じ食事を口にしていて不思議な気がする。毎日の食事を自分の身体にあわせて食べないなんて気持ちが悪い。  スティックをかじりながらお兄ちゃんの日記を開く。 『病院からの帰り道。風がひんやりしていた。肌が寒いと寂しい気がする。寂しさという感情はそういうことだ。どこかの家からホットケーキの甘い香りがした。おいしそうなにおいに体が膨らむ気がした。夕暮れが懐かしい。ホットケーキを落としたことがある。そのときは食べるのをあきらめた。あきらめたから懐かしい。懐かしさというのはそういうことだ。東の空に白い星が浮かんでいる。きっとやわらかくて明るい夜が来る。やわらかい嬉しさということ』 「なにこれ?」  思わず声がもれた。昨日の帰り道、確かにどこかの家から甘い香りがした。ホットケーキ。最後にいつ口にしたかな。お店に行けばある程度体質にあわせたものを選べる場所もあるから、ときどき友人達とカフェに行くことはある。  だけど、ホットケーキは食べない。  窓からまっすぐに差し込む光の中で埃がきらきらと舞う。窓の向こうの空はさきほどよりもうんと遠くに見えた。お兄ちゃんは食べたいのだろうかホットケーキ。わざわざ書き記すくらいだし、なにより日記の言葉には懐かしさがあった。ゆるゆると私専用のスティックをかじる。甘くもしょっぱくもない味。椅子の背もたれに体重をかけゆらゆらとゆらす。船にのっているみたいなこの心地が昔から私は好きだ。ゆらりと揺れる感覚は私に過去をみせてくれる。  ホットケーキを作ってあげる。耳に残るお母さんの声。銀色のボール。卵3つ。砂糖。牛乳。小麦粉。計量カップとスプーン。フライパン。横一列に並べて過不足ないことを確認して混ぜていく。作業はとてもシンプル。カチャカチャと小麦粉と卵と牛乳を混ぜ合わせる。日曜日のおやつに、よくお母さんとお兄ちゃんと作ったのだった。お父さんは笑いながら食べてくれていた。今と同じように夏だったのだろう。光がまぶしい。白いカーテンを大きく揺らした風がお父さんの髪をゆらす。そういうことを思い出した。だけど、思い出しただけ。わたしがどんな気持ちだったのかはわからない。遠すぎる時間が過ぎているのだから仕方ない。お父さんはもう何年も前に再婚して、私にもお兄ちゃんにももう会いに来ない。椅子をこぐのをやめた。どこにもいけないのだから。  いくら同じ記憶を共有していたって家族は違う道を歩いて行く。  あの夏の日に、ホットケーキを食べていた私たち家族の間に生じたなにかはどこにも残っていないのだろう。
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