朝顔とパンケーキ

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病院の中庭から誰かの笑い声がした。少し遠い声。  来てすぐにナノ端末を注射され、いくつか看護師さんや技師さんから問診を受け、今頃は様々なデータを緒方先生が確認中なのだろう。緒方先生を待つように言われて通された部屋は昨日の場所とは違って、窓もある開放的な部屋だった。笑い声は小さくなっていく。あの人達は病院から家に帰っていくのだろうか。ゆっくりと遠ざかる声は、消えていこうとしていた。 「お待たせしました」  入ってきたのは中林さんだった。 「色々検査受けていただいて大変だったでしょう? 大丈夫ですか?」 「はい。一通りどんな検査をするかわかっていましたので」 「良かった。申し訳ないのですが、緒方先生はうかがうことができなくなりました。今日は簡単に医療費助成の書類や患者会の案内だけ差し上げようと思いますがお時間大丈夫ですか?」 「はい」 「医療助成費の書類はこちらです。真珠病は対象疾患なので、3回目のゲノムカタログ治療まではほぼ無料で受けられます」  説明の途中で中林さんは眩しそうに目を細めて窓の外を眺める。窓から入ってくる日差しは木漏れ日とともに揺れるけれど私たちのいる部屋の奥までは届かない。それから私とふたりだけになったのを確かめるように後ろを振り向いてから、そっと椅子をひいて私の向かいに腰を下ろした。すっかり頭にはいっているような内容を中林さんは淡々と説明し、質問はありますか、ときいた。ないとこたえた私の顔をじっとみて、中林さんはただ続きを説明するように言った。 「私は妹が真珠病になったんです」  さらりとささやかれた言葉に引っ張られて、ちゃんと中林さんの顔をみた。真っ白な部屋の乱れることのない一定した光を放つ蛍光灯の下で、中林さんは相変わらずきっちりと丁寧なほほえみを浮かべている。 「ここで治療したんですか? 緒方先生に?」  思わず声を潜めてきいてしまう。中林さんははじめて砕けた感じで笑ってくれた。 「ここ、専門病院なので治療は確かよ。先生は、まあ、特殊な性格かもしれないけど。知識はあるし腕も悪くない。そこは安心して」  流れる川のようにまっすぐな声で中林さんが言ってくれると、私の気持ちは少し軽くなる。まとわりついていた余計なものを流してくれた。中林さんと目が合う。あっという間になにか道のようなものが私と中林さんの間にできた。 「真珠病患者の家族会がないのは知ってる?」  中林さんがそう言ったとたん部屋がさみしげにくすんで見えた。窓の外の陽射しが遠い。 「きいたことないです。でも、興味なかっただけかも」  中林さんは首を横にふった。私の言葉のどちらを否定しているかわからない。 「ないの。癌とか、他の病気ではよくあるんだけど。癌だって遺伝子治療で今はほぼ根治可能だけど、治療方針とか生活レベルの改善とか情報交換できるように患者さんと家族が集まれる会は存在している。だけど、真珠病はね、ないの。誰も語り合いたくないんでしょうね」  中林さんの笑顔が少し崩れる。子どもが泣き出す寸前の表情。さっきまでの柔らかな声とは全然ちがう声がゆれる。膝の上にのせた手がかすかに震えていた。私は思わず両手を伸ばしてその手にふれる。すっぽりと、覆い隠すようにつつむ。昨日、お兄ちゃんにやってあげたくてできなかったことが、今はすんなりとできた。中林さんの手はびくりと驚いたみたいに最後に大きく震えたけど、だんだんとおさまって暖かくなった。 「語り合いたくないって、どうしてですか?」  中林さんは、ありがとう、と小さくつぶやいてからそっと私の手を握り返し、それからその手をすっと引いた。表情はすっかり穏やかで泣きそうな気配はどこにも残っていない。そうやって誰にも迷惑をかけないように注意して生きていける人を大人と言うのだろう。中林さんは右手の小指の爪を親指でこする。きちんと手入れされたとてもきれいな爪だった。一片のくすみもない。 「家族は色んなことを患者さんと話してとにかく隠された<感情>を見つけ出そうとする。探し回るのに疲れたころ、こう言われる。別に、気持ちが変わるなんて良くあることでしょって。患者本人である家族に置いて行かれて、だから、もう誰とも語りたくなくなるのかもしれない。……左手の小指だったな。ほんとうに小さな」  うなずくことしか私にはできなかった。わかりますとか、私だって、とか色んな言葉が頭をよぎったけど、結局一つも口から出すことはできなかった。中林さんの痛みは中林さんだけのものだ。私は息をついた。昨日の中林さんの笑みを思い出した。嘲るような薄い笑いに込められた気持ち。 「私、どうしたらいいですか? お兄ちゃんはどうなりますか?」  中林さんは椅子を引いて立ち上がり、カーテンをもう少しだけ開いた。カーテンにあわせて光が部屋に揺れ動く。 「もっと妹の暮らしを知っておけば良かったかな」  中林さんは窓の外を眺めたままつづける。 「セーターがあったの。青い色の。中学生のときに妹が手作りして、きっと誰かにあげるつもりで。でも、あげられなくてずっと持ったまま。すごくいい色で大事にしていた。なんの実用性もない思い出の塊。それを、ね。治療がおわってすぐに捨ててた。いいの?って聞いたら、欲しいの?って逆に驚かれた。あとは、治療の直前に、『そういえばぬかづけが』ってひとりで笑ってたの。あとで教えるねって。でもいいかけたことは覚えていても、笑った気持ちはもうどこにも残ってなかった。だから言いかけの言葉はずっと戻ってこないのよね。そういうゆるやかな積み重ねって家族ならではなんだけど、もっとたくさんのこと知っていたら気にならなかったんじゃないかなって思うことがある。気休めかな。妹とは大人になってからそんなに親しかったわけじゃなくて数少ない思い出の違いが私と妹をどんどんずらしていく気がする」  思い出を笑いあったり怒ったり、そういうひとひらひとひらの感情が一方通行で進めなくなる。行きつけない気持ちに押しつぶされそうで、もうこれ以上誰かとすれ違いたくなくて真珠病患者さんの家族たちは言葉を走らせることをやめてしまう。 「私、実はここを辞めるのよ。さいごの患者さんが前田さん。だから正直に言っておきたかった。たった30数億の文字で構築されている人の設計図を書き換えていくんだから。存在が変わっていくなんて当たり前なのかもしれないけど、私はどうしてもまだわからない。違いをつきつけられたまま、動けないでいる」  またたきをするように蛍光灯がぷつりと切れた。部屋の暗さでゆうぐれがやってきていたことに気づいたけど、どうしても長い廊下にまだ出ていくことができなかった。
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