朝顔とパンケーキ

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紙が舞っていた。無数と言える白い紙切れは、兄の手から放り投げられて空を舞い、次から次へと土の上に落ちていく。わたしはそれらを丁寧に拾い上げて、兄が用意した箱の中に入れていく。できるだけ紙面が目にはいらないように心がけていたが、青いインクで書かれたとても読みにくい文字が見えて手をとめる。わたしにしか読めない、兄が綴った言葉たち。兄がこれまでずっと書きためていた日記だった。 「おにいちゃん」  わたしの声に兄が手をとめてふりかえる。 「いいの?」  わたしは言葉を連ねた物語の一部をかかげてみせる。朝の日差しは透明で、なんの隠し事も許さないような清潔さが漂っていた。兄は再び優美ともいえる仕草で、ノートから紙をやぶり、ちぎり、空に舞わせる。 「かまわないよ。全部ゴミになるんだから」  朝の光の中で、兄の言葉には少しのうしろめたさもうそも見えなかった。空に透ける白い紙切れが一切れ私の手の中に舞い落ちてくる。言葉が見えた。  そこでぱっと目が覚めた。  夢の中で出会った言葉は何だったんだろう。何かを思い出したようなそんなひらめきの感覚がまだ私の中に残っている。部屋を出て、あまり空腹ではないのに朝ご飯のスティックを食べる。雨がふっていた。お兄ちゃんがのそりと部屋から出てきた。昨日、病院から帰ってきたお兄ちゃんはとても疲れた顔をしていてまっすぐに部屋にはいってしまった。私と比較にならない数の検査を受けてきたのだから仕方ない。 「おはよう」 「おはよう」  昨日よりは顔色が良さそうで安心する。 「今日も病院?」 「いや、今日は。あぁ。そういえば日記を」 「日記?」  夢がこちら側を訪ねてきたような感じがしてどきりとした。 「うん。緒方先生から頼まれた。ゲノムを書き換える前後で感情が変化した記憶についてできるだけ知りたいから見せてもらえないかって」 「見せるの?」 「うん。10年分の紙の日記帳だけどいいかってきいたらうめいてたけど」  あの緒方先生をうめかせるとはなかなかやるじゃないかお兄ちゃん。 「あと、少し他の患者さんと待合室で話したんだけど」  隣の部屋のベランダから大きな泣き声がして、どきりとする。すぐに女の人があやす声がして、泣き声はたちまち落ち着ききゃっきゃとはねるような笑い声に変わる。流れ去っていく感情の一端をあんなふうに見事につかんで誰かに差し出してみせることができたのはいくつの頃までだったかな。 「副作用で失った感情を拾い上げるのは、砂漠に落としたたったひとつの小石を探すようなものだって」 「・・・・・・ほぼ不可能ってことじゃん」 「だけど不思議なことにさ、石が輝くことがあるんだって。何年かかるわかからないけど』 「へぇ」  私の気のない返事にお兄ちゃんは笑う。あわい希望でも抱かせたかったのかもしれないけれど、私はそれほど非現実的な想像力にひたることはできない。お兄ちゃんはそうではないのだろう。私は壁際の本棚に目をやる。お母さんがいなくなったときもそうだった。お母さんが好きだったものとお兄ちゃんは長い時間を過ごすようになる。確か本も捨てられるはずだった。お兄ちゃんが反対したのだろう。一方、お父さんは自室にこもりがちになった。どんどん気配が消えていって、私が我慢できなくなってノックしても扉の向こうからは何も返事はなかった。そして、お父さんはすべての思い出から逃げ出すように出て行った。お父さんとお兄ちゃんはそれぞれ違うやり方でお母さんの喪失と向き合って、お兄ちゃんだけ残った。  私は? 私はどうしていたのだろう。お母さんとの思い出。ちゃんと覚えているだろうか。正確には記憶としては忘れてはいない。何が起きたのか、把握できてはいる。だけど遠いのだ。まろやかな光に包まれていて、記憶に触れることがうまくできない。ふと、その綺麗さがこわくなる。これは、同じじゃないだろうか。記憶から欠落してしまう感情。押さえようともしないからどんどん私から剥がれ落ちていく。 「あかり?」  お兄ちゃんの呼びかけに呼び戻される。 「うん。大丈夫大丈夫」  ぼんやりとしてしまったことを心配されたと思った。 「それで、俺は、ちょっと行ってこようと思うんだ」 「え? どこに? お父さんとこ?」 「昔皆で住んでた街。一緒にくる?」  顔を上げてお兄ちゃんの表情を見て驚いた。  とてもさっぱりとした顔で笑っていた。  夢でみた白い紙切れ。真っ白な紙切れが脳裏にひらりはらりとひるがえる。ちりっ、と頭の中で光の粒がはじけたような感じがした。なんだろう。かすかな感じで残る細い糸をたどりたいと思ったのに、すーっととけるように消えてしまう。それ以上の思いはたどれない。代わりに浮かんできたのはお母さんと最後に会ったときのことだ。真っ白な病室。窓辺にゆれる白いカーテン。看護師さんが貸してくれた花瓶に生けられた私がつんできた朝顔。病室には私とお母さんだけだった。ずっと待っていた。お母さんが目を開けるのを。そこから先の記憶の準備はまだ整っていない。 「あそこにはもうなにもないよ?」  どうこたえていいか困り質問で返した私の声は少しかすれていた。 「うん。俺たちのお母さんはもうどこにもいないけど。それでも行ってみる。あかりも来る?」  私はいつまでも黙っていた。  行く理由なんて私にはない。  なかったのに。
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