第九十二話

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第九十二話

 注文した同じカクテルが運ばれて、並んだふたつコースターの上に置かれた。一緒に切り分けられて盛られたチーズが皿に載っている。洋酒は酒とは思えないほど飲みやすくチーズと共に胃に消えていった。 「それがこの店なのか、でもそうして気にするところは出会った頃の希未子さんらしくないなあどうして変わったんだろう」  変わってないわよ、と少し酒の所為(せい)か口が軽くなっている。 「守る物が出来れば少しは臆病にも成っちゃうわよ」  と言ってから彼女を少し身を引いた。それで何を気にしたのか判ると鹿能には自信が湧いた。 「おじいちゃんはね、昔このようなテーブルの下に落ちた給料袋を探す間に母の別面を覗き見て本当の気持ちに気付いたけれど、もし気付かなければ金の亡者になる確率は高かったでしょうね」 「でも此処のテーブルは少し低くて小さくて狭い割にはしっかりして手の置く場所がない」 「そうね、だからさっきの店と比べて此処のテーブルは分厚いから中々見極められないわよ、そう思うと心の襞ってそう簡単に覗ける物じゃあ無いからあのテーブルは値打ち有る代物ね」  そう言われれば此処のテーブルは膝が(つか)えて手の内が丸見えで、仕方なく希未子はそのままテーブルに手を置いた。  その手がじっとしていなくてじれったそうに鹿能の気を惹くようにテーブルの上を這っている。鹿能がその手をじっと見詰めると、その手の感触が伝わって来た。すると鹿能も彼女と同じ仕草で、年季の入ったテーブルを指の腹で、(いと)おしむように這わせた。  希未子は自分の手の動きを追うと、そこに同じように動く鹿能の手と目線にハッとして気付くと、思わずその手を引っ込め、直ぐに顔を上げた。そこで彼女は少しはにかみながら追っていた視線を真面に合わせた。それに気付いた鹿能が今度は()らさず希未子の視線を逆に捉えた。そこにはいつも仕事でしか見せない彼の真剣な眼差しが、花造り以外に向けられた瞬間だった。  希未子にしてもその顔はあの店で向き合っている花にしか向けられない。だから横顔でしか見ていない。花に向けられたその真剣な表情を今初めて真面に希未子を捉えている。 「初めて真面に見たあなたのその顔」  彼女は網に掛かった蝶のように、その瞳の中に飛び込んでいく。そこには一点の曇りも翳りも無い、初めて見せた無垢の彼女の姿がある。 「あなたなら見つけられる」 「何を?」 「おじいちゃんが目指した果てしない荒野を……」  と希未子は先ほど特別注文したカクテルを持つと「辛気くさい恋に」と云って意気揚々と高く掲げた。                      完
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