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邂逅
「醜い」
洞窟の物言わぬ暗い石壁に向かって、彼はそう低く呟いた。
「美しくあろうとするは、何と醜いものであるか」
誰に聞かせるわけでなく、単なる独り言……。
外をとうとうと降る雨はなお勢いを増し、西の空を見やると分厚い雲に隠れた陽は山陰へとすげなく没しかけている。辺りはすでに薄暮から闇に差し掛かっていた。
「山の天気は変わりやすいが、これほどの雨になろうとはな」
痩せた男が一人、天を仰いで顔をしかめる。
男の背には箕など雨具の支度もなく、薄い衣を染み透る雨水がしんしんと肌を冷やして恨めしい。
「とりあえず何処かで雨宿りなぞせねば、とても持たぬ」
足元のぬかるんだ細い平面は獣道だろう。熊か、狼か、はたまた……。
暫くすると、山肌にぽっかりと穴が開いているのが男の目に入った。
「洞窟か、これはいい。できればここで雨が止むのを待ちたいが」
恐る恐る穴の入り口から中を覗き込む。
「……」
中は、静かだった。唸り声など獣の気配はない。もしも子供を持つ熊などがいればたちまちにして牙を剥いて威嚇に至るであろうが、取り立てて何もなさそうだ。空洞であれば幸いに尽きる。
「……邪魔をいたす」
誰いうこともなくそう声をかけ、そうっと中へ足を踏み込む。
しんと静まり返った岩肌が冷たく反り立つ。奥向きにも、さほど広くはないようだ。
「ふぅ……まあ、ここの山は都も近い。昨今は妖も多く遠出は無謀と聞くに及ぶが、ここならば」
仏僧の中には末法の世を嘆く者も少なくない。絶えぬ争いと飢饉に人心は荒み、闇に跋扈する妖が勢いを増し、都は荒廃する一方。
そのときだった。
「いや」
何者かが、暗闇の奥から返事をした。低く、しわがれた声。ぞっとするその響きは、とても人間のそれではなかった。
「妖なら、ここにおる」
「うわぁぁ!」
何という失態! 男は逃げ出そうとするも、足がすくんで動けない。がたがたと震える五体は、怖さと寒さと。
「ひとつ聞く」
落ち着いた声。
やがて少しづつ目が慣れて、奥で何者かがゴロリと横になっている姿が見えてきた。どうやら壁を向いて寝ているようだ。こっちを向いてはいない。
「お主、仏僧か?」
妖の問いかけは、男の意表を突くものだった。
「何?」
思わず聞き返す。
「ここ暫く、儂も満足に物が食えてなくてな。折角の馳走がやってきたのだ。腹の足しにしたいところではあるが、儂は『仏に仕える者だけは食わぬ』と誓っておってな」
妖の多くは人をとって喰うと聞く。ならばこの者もそうであって不思議はあるまい。されど『仏僧を食わぬ』とは? だが確かに男の身は貧乏寺の僧侶に違いはなかった。
「そ、そうだ、私は仏僧だ。わ、若いので大した格は持ち合わせぬが……か、戒名は『玄奘』と申す」
それで命を助けてくれるのであれば。玄奘と名乗る男は『証』とばかりに懐から数珠を取り出し洞の奥に向かって突き出した。
「ふむ……格はないか。ならば――」
何事か、その妖が口ごもった。そしてこう問いかけた。
「ところで玄奘とやら。お主、ここで何をしている。こんなところに寺なぞないが」
玄奘を疑っているのだろうか。
「じ、実は、人を探している」
震える声で玄奘が答える。
「『古からこの山に住む賢者』だという。神仙らしく行って会えるは稀だと聞くが、出会った者もいるという。その者を探して知恵を借りたい」
「賢者か……ふむ」
妖には心当たりがあるようだ。
「そうか。して、会って何を尋ねようとする?」
ごそりと妖が身体を起こす音に背筋が冷え、玄奘が痩せた背中をずり……と岩肌に寄せた。
「み、都に住まう帝が、この世を救う知恵を欲しておられる。末法の世を極楽浄土へ導く道だ。その知恵を与し者に報奨を与えると。だから、知恵者を――」
すると。
「その『賢者』、もしも儂のことだとしたら? 『古からこの五行山に住まう』という神仙ならば儂しかおらん」
くく……と低く嘲笑う声。
「何と! に、俄には信じられぬが。……では賢者とあれば、この世を救う知恵をご存知か」
玄奘が恐る恐る問いかけると。
「……この世を救う、そのものの知恵は儂には無い。だが観世音菩薩から大般若の経を修めることができれば、その道は開かれるかも知れん」
低い声。
「何?! 大般若を! それは真か?!」
思わず玄奘が身を乗り出すが。
「確かだ。何しろ観世音菩薩本人が儂にそう言い残したからな」
「何と……」
もしもそれが本当ならば、この者は観世音菩薩と話をするほどの大神仙ということになるだろう。
「あなたは、賢者殿は、御名を何と申されるのか」
玄奘がおずおずと妖に尋ねると、妖はひひ……と嗤いながら玄奘と顔をあわせた。全身を短い毛で覆われた、老猿の如き姿。
「儂の名は孫だ。師匠となる須菩提祖師より頂きし名を『孫悟空』と申す者なり」
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