邂逅

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「おお、須菩提祖師のお弟子とは!」  玄奘が思わず声を上げる。須菩提祖師とは釈迦十大弟子の一人である須菩提のことだ。なるほどその弟子であるとするならば、「佛に仕える者は喰わない」という理屈も分からなくはない。 「ううむ、ならば孫殿がかくも物知りであるのも納得できるというものだ。然らば観世音菩薩様にお会いできるよう計らいを願うことは――」 「無理だな」  孫はすげなく返した。 「取経には佛の住まう西方浄土へ直接に赴かねばならぬ。更に高徳な僧でなければその教義を解するのも容易ではなかろう。観世音菩薩はそう言っていた」 「う……」  玄奘が言葉を失う。  都から西方浄土までは途方も無い距離があるとされる。正直なところ正確な場所すら定かではなく、何年掛かるか見当もつかない旅となろう。  更に道中は山野も険しく、妖も跋扈しているという。厳しい道程となるのは間違いない。高徳な仏僧となれば齢60を超える者も珍しくはない。そうなると健脚には程遠く、普通に考えれば不可能にしか思えないが。 「そうか……だが都は広い。いずこか取経の旅に適する人物がいるやも知れん。その話だけでも価値はあろう、何とありがたい。さっそく帝にお話をせねば」  玄奘が立ち上がると、悟空が「もうひとつ」と呼び止めた。 「な、何か?」  びくりとして玄奘が足を止める。闇に隠れて見にくくはあるが、その眼差しが嫌らしく下がったようにも窺える。 「西方浄土への道程は険しい。妖に出会えば無傷では済むまい。もしも出立するとなればまずは儂を訪ねるがいい。よき道を教えてしんぜよう」  くく……と喉を鳴らす押し殺したような嗤い声が洞の岩を微かに震わせた。  そして、それから数日ほどした後のこと。 「陛下、例の件について奏上したき義ありと申す者が来ております」  帝の元に、一人の老僧が恭しくやってきた。 「……そうか」  帝の返事は乗り気ではなかった。『この世を救う知恵を求める』と発布したのはよいが、誰の話を聞いてもそれがよきものだと思えるものはなかった。祈祷をするとか立派な社殿を建てて佛を祀るとか、そうではなくももっと心打たれる何かを感じるものがあるのではと思っていたのだが。  或いはそのような知恵は存在しえないのかもと半ば諦めかけていたのも事実。 「何処ぞの高僧か」  帝の問に、老僧はゆっくりと首を横へ振った。 「いえ。玄奘と申す者で、大覚寺の門弟に連なる者だそうです。法師としては若く格もないので帝の前に私が少し話を聞き及びましたが、少々思うところがありまして。これは直接お耳に入れた方がよかろうかと」 「ほう……」  帝はようやく興味を示したようで、椅子の肘掛けに頬杖をついていた頭を起こした。 「よ、三蔵法師の号を持つそなたが『これは』と思うならば価値はあるやも知れん。さればここに呼ぶといい」  三蔵法師とは仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶を指す尊称である。特に梵語(サンスクリット語)からの翻訳をする僧侶を指す場合が多い。実は般若心経を漢語へ訳したのは羅什三蔵が最初である。 「では」  羅什が引き下がり、寸刻を置いて身なりの粗末な一人の僧を連れてきた。  玄奘と名乗るその者は帝の前で平服して細かく震えているが、これは仕方のないことだった。何しろ自身がいきなり帝に奏上することなぞ到底不可能。そこで大覚寺の僧主を通じて羅什三蔵に話をもちかけたのである。玄奘はこの羅什が帝に代わって話を聞くものだと思っていたら、一言二言聞かれただけで「そこにて待て」と言われ、すぐに「帝へ拝謁するから」と呼ばれたのだ。恐縮するなという方が無理であろう。   「帝に申し上げます」  羅什が恭しく頭を下げる。 「この者が申すには『この困窮を救うには西方浄土へ向かいて大般若の教えを修める他なし』と」 「……大般若というと羅什、そなたが梵語から訳した大乗の経典か?」  大乗とは出家していない一般の信徒を救うための思想経典である。だがこの頃、その真髄の何たるかはよく分かっていなかった。 「如何にも。しかして私の訳したものは都に持ち込まれた経典の一部にて、その教えを直接に受けたものではありませぬ。故にその真意を汲み取るには不十分かと存じます。『これは西方浄土に赴いて直接に薫陶を受ける他無いか』と、私自身も考えていたこと」 「そうか……だが、西方浄土までの道程は険しいと聞く。更に羅什を以てしても難解な大般若を修められる適任がおろうか?」  帝の心配に、羅什が力強く「おります」と頷いた。 「実を申すと、この玄奘が会ったという五行山の賢者には、拙僧も一度だけ会ったことがございます。僭越ながら、神仙の類が『これは』と思う者だけを選別しておるのでは。されば、が適任であろうかと」 「え……」  床を向いた玄奘の顔から血の気が引く。  まさか、自分が?! 「なるほど、天から選ばれたとあれば是非もあるまい」  帝が椅子から立ち上がり、すす……と玄奘の元に歩み寄った。  「玄奘とやら、せめてもの餞別としてそなたにも『三蔵法師』の号を与えよう。苦難の旅となろうが、この国難を救うべくよろしく頼むぞ」 「は……この玄奘、身命に替えましても!」  鼻先を床に擦り付けたまま、玄奘はそう答える他なかった。
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