大悟

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大悟

「さて不思議に思うものだが」  悟空がふと呟く。  牛魔王との闘いを終えて数ヶ月後、一行は小さな村で一休みをしていた。 「近頃の師匠はこの旅を楽しんでいるかのように思えてならぬ。最初の頃はあれほど嫌がって『誰か自分の代わりに経典を取りに行ってくれまいか』とまで言っておったと思うのだが」  悟空が牛魔王との闘いで失った仙気は大きく、その顔は人参果を食する前より更に老けたようにも見える。ここ暫くは長い歩きが続くとため息をつくことも増えた。 「楽しむ、というほどの余裕はないが」  雲の薄い、晴れた空を玄奘が見上げる。 「私はやっと分かって来た気がしてならんのだ。この旅の意味というものを」 「ほう? 意味とな」  悟空の問いかけに、玄奘が眼を細めて眉をひそめた。 「唐の都には、以前より西方浄土よりもたらされた般若の経典があったのだ。それを羅什三蔵殿が苦労の末に訳されはしたのだが」  西方浄土から伝来した般若(※知恵の意味)の経典には物の道理だけではなく、当時の治水や薬学についても記載がある。それこそが出家の修行僧だけでなく在家の衆生を救わんとして『現世利益』を求めた大乗(※大きな乗り物の意)の教え。  だがそれでも限界はある。救える命に限りはあるし、洪水や渇水の全てを意のままにできることもない。人は死から逃れられない、老いには勝てない、病に倒れる。いや、生きることそのものが苦しみの連続。  現世利益の法によって救えぬ魂をどう救済するのか。それこそが『心髄なる般若』すなわち『般若心経』なのだ。 「しかしながら、その心経の真意の会得には至らなかった。それはきっと、聞いてどうなるというものではないのだからだと思う」  単に経典をもたらすだけなら、釈迦や観世音菩薩自身が持ち込めば済むことだ。しかし、それでは教の持つ真意が伝わらないと。 「極意とは会得体得するものであって、見知って得るものではない。今は上手く言い表わせないが、それがこの旅でよく分かった」 「うむ、そうだな」  悟空がこれに小さく頷く。 「経典に書かれた意味を解する者は、その心を実践している者だけよ。実践していない者にその真意が伝わる道理はない。経典はただその行いを証しているのみ」 「私が修行をしているときに『法灯明』という言葉を師から教えて頂いたことがある。今、その意味がやっと分かるよ」  ふっ……と玄奘が微笑んだ。 「経典即ち法とはいわば灯明。闇を照らした足元に、『その道は正しきなり』と書かれているを見つけるようなもの。教えとはきっとそうしたものに違いあるまいよ」 「――そのように思召しですか」  口を開いたのは玉龍だった。 「――ならば、この旅はここで終着でございます。『玄奘三蔵殿が悟りを得たならば、そこが終着点である』そのように観世音菩薩様から仰せつかっておりますれば」  その瞬間。  玄奘たちの周りが光に包まれ、それまであった村の景色がまるで蜃気楼のように消え去った。 「これは!」  いつの間にやら玄奘たちは大きな伽藍の中央に座していた。 《皆さん、ようこそ。ここは私たち菩薩が修行を行う祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)、すなわち『西方浄土』です》  声だけが何処からともなく聞こえてくる。姿は見えないが、それが誰であるかは玄奘にもはっきりと分かる。そう、この旅の最初に一度だけ聞いた『あの声』。観世音菩薩だ。 「こ……ここが西方浄土」  玄奘が息を飲む。書物伝聞でしか知らぬ佛の世界、西方浄土に今自分がいるのだ。 《猪八戒、沙悟浄、玉竜。そなたたちは玄奘三蔵殿を助け、よく働いてくれましたね。特に牛魔王を倒した勲功は大きく、天帝殿にも私から話をつけてその罪の全てを赦すとお言葉を頂いております》 「は……っ!」  呼ばれた2人と1頭が深く頭を垂れる。 《玉竜。そなたはこの長い旅路において玄奘の徒歩を支え、ときに知恵を与え、助力し、よく助けてくれた。よって、天竜八部(てんりゅうはちぶ)(佛教を守護する8人の神の一角)を任じます》  すると玉竜は元の龍に姿を変え、天界へと戻って行った。もう、父親である西海竜王よりも格式は上。悲願は成ったと言えようか。 《続いて沙悟浄。そなたは一行に加わりその旅路においてよく活躍し、称賛に値する行いでありました。よって金身羅漢(こんしらかん)に任じます》  金身羅漢はこの後更に修行を積み、後に佛に次ぐ位である金身阿羅漢菩薩となる。 《そして猪八戒。そなたもまたよく働き、この旅を支えてくれました。その働きの見事を称え、浄檀使者(じょうだんししゃ)としよう》 「あの……」  八戒が苦笑いを浮かべている。 「僕は菩薩や羅漢ではなくてですか?」 《天界が難色を示しましてね》  その声が笑っているようにも聞こえる。 《菩薩や羅漢は天界とも繋がりが深く、嫦娥殿と顔を合わせる機会もありましょう。そのことを天帝陛下や顕聖二郎真君殿が快く思っておられない様子。それに》 「そ……そうでしたね」  八戒には、約束した相手がいる。 「僕には、翠嵐の元へ帰るという約束がありました。それは、果たさねばなりませぬ。現世との使者であれば、度々において顔を出すこともできましょう」    八戒も頭を深く下げ、これを受け入れたのだった。
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