七品目:菜の花のツナ和え/姫乃井泰正

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「いまくらいの時期になると、葵ちゃんが『菜の花置いてありますか?』なーんつって来てくれてよぉ。嬉しそうに買って帰ったもんだ。尚斗君も、野菜は食えるんだろ?」 『葵ちゃん』──昔馴染みにそんな風に呼ばれていたのか。それだけこの商店街に通い、馴染みの顔になっていったのかと思うと、亡き妻の存在が誇らしかった。  ついでに挙がったは孫の名前。  そうか、心一郎君は尚斗が野菜嫌いなことを覚えていたのか。 「苦手だったけど、高校生になってだいぶ食べられるようになったね。ただ、菜の花はどうだろう? 昔から『苦いから嫌』って食べてくれなかったから」 「このほんの少しの苦味が、大人の味ってやつなんだけどなぁ。……そうだ! 最近カミさんが菜の花が苦手な人でも食べられるってレシピを開発しててよ! なんか作ってコピーしてたのがあるわ、ちょっと待ってな」  今度は店先を離れ、母屋の居間になっている奥座敷へと上がり込み「えーと、どこだったっけー!?」と、ひとしきり騒ぎながら部屋のあちこちをひっくり返す音を響かせる。バタバタと戻ってきた心一郎君が手にしていたのは一枚の紙切れだった。 「これ。菜の花の苦味を抑えて食べやすくしたレシピなんだと。俺も食ってみたけどよ、たしかに食いやすかった。これなら尚斗君でも食えるんじゃないか?」 「菜の花のツナ和え……」  菜の花と言えば、おひたしや辛子和え、天ぷらなどがメニューの定番として挙げられるが、ツナ和えは初めて聞いた。  合わせる調味料の欄を見ると酢、マヨネーズと書かれている。苦味をまろやかさで抑える感じなのだろうか? 「菜の花にマヨネーズなんて、って思ったけど意外と合うんだよ」 「そうなんだ? ツナ缶は家にあるし作ってみようか」  代金を支払い、心一郎君にお礼を言って店をあとにする。 (メインは……冷凍しておいた鮭を焼こう。それにツナ和えと浅漬を出して、あとはご飯とお味噌汁かな)  頭の中で献立を考えながら家に向かって歩いて行く。途中、立派な門構えの学校の前を通りがかった。ここは尚斗が通っている男子校だ。  閉ざされた門の向こうは静かで、みんな授業に集中しているのだなと納得するように頷いた。  袋を提げた左腕を持ち上げて手首に視線をやると、腕時計の針はもう少しで十二時を指すところだ。 (そういえば、お昼ご飯まだでしたね……近所のパン屋さんでパンでも買って帰りましょうか)  数年前、住宅街の一角に新しくオープンした、小洒落たベーカリーハウスのことを思い浮かべながら、再び歩き出した──。
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