第1章 初春の青海

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 竜景寺に新たに赴任した神官については、その他、竜景寺で見られたいくつかの変化とともに注意すべき事項として山崎に報告する必要があることは確実だった。  稲荷神社の勧請は浅井宿の商人たちの願いでもあったと、あの後、面会した住職から聞かされたが、浅井宿の中にも既に稲荷神社の社はあったはずだ。あえて竜景寺の境内に小さくはない社まで建てるのなら何か他に目的がある筈だ。単純に寄進を増やすだけとは思えない。  それについて詳しく調べるのなら、あの神官の身の上について知ることが必要だった。紀伊の国から来た、というだけでは足りない。竜景寺を去り際に神官の名を尋ね、身の上を明らかにした書類を近くの番所に届けるよう言い置いた。 「彼の神官の名は古老(ころう)と申しますが、我ら御仏に仕えます者たちと同様、彼の者の名前も神に仕えるための名。元の名は捨ててございましょう」  対応した僧は淡々と告げ、書類ができ次第の提出を約束した。  その日、修之輔が羽代城に帰還したのはまだ日も高く、八つの鐘が鳴る頃だった。  冬の日の短さに、部屋が暗くなる前に報告書の作成をしようと馬を厩番に預けて直ぐ、三の丸に建てられた長屋の自室に戻ると、留守のはずの部屋に人の気配がある。思い当たる節があったので警戒なく表戸を開けると、土間には草履が一足きちんと並んで置かれていた。草履の持ち主はお仕着せの小袖袴に羽織姿、人の部屋にいるという遠慮がまるでなく、座敷に寝そべって書物を読んでいた。 「いつからここに」  修之輔が戸を閉めながらそう聞くと、 「半刻も経っていないです」  そう華やかな笑みを浮かべて見上げてきたのは、羽代の藩主である朝永弘紀その人だった。 「年が明けてから秋生と一度も会っていなかったので、顔を見に来ました」  修之輔は刀を置き、起き上がる弘紀の向かいに腰を下ろした。 「城の中とはいえ、一人で二の丸御殿を離れるな」 「貴方が戻ってきたから、もう一人ではないですね」 「弘紀」  修之輔が弘紀の屁理屈を窘めても、弘紀本人はどこ吹く風の涼しい顔で受け流す。  羽代の年若い藩主である朝永弘紀は、度々こうして使用人に変装して修之輔の部屋を訪れる。  弘紀は藩主になる前、事情があって身分を隠し隣の黒河藩に滞在していた事があった。黒河藩で剣道場の師範代をしていた修之輔は、弘紀の身の上を知らないまま弘紀に剣の指導をしていた。剣術に関して師弟であった二人の関係は、羽代藩主の座に就いた弘紀が修之輔を羽代に呼び寄せてからおおよそ五年、今日に至るまで私的に続いている。  弘紀は政務の終わった夜になると三日と置かずに自分の私室に修之輔を招く。弘紀に呼ばれたその夜は、城の警備を担当する馬廻り組頭の役目柄、修之輔はそのまま宿直の任に就くのが習慣だ。  今日のように昼間、弘紀が変装して修之輔のところに来るのは、修之輔が住む長屋に併設されている剣道場で剣の稽古をする時か、あるいは夜を待たずに修之輔に用事があるときだ。  火鉢に火を熾して好物の生姜糖を齧っている弘紀の姿を見ると、今日は後者のようだ。修之輔が土瓶を火鉢の五徳にかけると、その様子を眺めていた弘紀が口を開いた。 「竜景寺に行ってきたのですか」 「ああ。これからその報告書を書かなければならない」 「そうですか」  応える弘紀の口調にいつのも歯切れの良さが無い。うつ向きがちな視線を軽く覗き込み、話の続きを促した。 「貴方に竜景寺に行くよう指示したのは、山崎でしたか」 「そうだ」 「西川や加納からの命令ではなかったのですね」 「ああ。だが山崎殿が番方を取り仕切る西川様から命を受けたのではないのか」 「羽代の中には竜景寺に関わりたくないと考えている者がいて、自分の命令であることを明確に下に伝えないことが度々あります」 「西川様のことか」  弘紀は曖昧に頷いた。 「誰が命じたのかはっきりさせないと、責任の在りかがうやむやにされています。貴方が山崎に信を置いているのは良いのですが、今後同様なことがあれば誰の意向なのかを確認してから動いてください」 「分かった。確かに考えが足りなかった。すまない」  自分の判断が軽率過ぎたことを修之輔は素直に認めた。山崎は番方の役目が長く、修之輔と個人的にも信用のある友人なのでその依頼の不備に気づかなかった。むしろ弘紀の役に立てることだと進んで引き受けた気持ちがあったことも間違いない。  頭を下げる修之輔に、弘紀は気まずそうな顔をした。 「貴方が悪いのではありません。貴方と山崎の親交を利用した者こそ糾弾されるべきなのですが」  どうしても口調の歯切れが悪い弘紀の様子に、統治者として羽代の内部を一つにまとめることの難しさが察せられた。  互いに次の言葉が見つからないまま、やがて静かな部屋に土瓶の湯が沸く音が上がり始めた。湧いた湯で茶を淹れようと茶器を取りに立ち上がりかけた修之輔を弘紀が制した。 「私はもう二の丸に戻ります」  ならばと土瓶を火鉢から降ろし、先に修之輔が土間に立った。框に腰かける弘紀に草履を履かせていると、口調にいつもの快活さが戻った弘紀が話しかけてきた。 「明日の夜、私の部屋に来てください。江戸の兄から正月の荷が届いたのです。書物や珍しい物が送られてきたので、貴方にも見せたいのです」 「あの通路を使って行けば」 「はい、いつものように」  二人だけに通じる言葉を交わせば弘紀の表情も明るさを取り戻す。表戸を開けると外は冬の夕方だった。  使用人に変装しているとはいえ弘紀一人で歩かせるわけにはいかない。御殿までを弘紀に付き添うその途中、修之輔は報告書には書くつもりがない竜景寺での出来事を弘紀に話した。 「竜景寺に新たに赴任した神官に、月狼と呼ばれた」  隣を歩く弘紀が素早く修之輔の顔を見上げた。 「江戸参勤以来のことですね」 「ああ」 「江戸で会った顔でしたか」 「いや、まったく見覚えがなかった。だが、あちらは俺を知っているようだった」  それもこれまでと一緒ですね、と弘紀が視線を前に戻す。 「江戸でのことと言い、貴方を月狼と呼ぶ彼らは何者なのか、私も興味を持っています。何のために動いている者達なのか、目的が明らかでない以上、注意が必要だと思います」 「竜景寺の僧によると、古老という名のその神官は伊勢から来たということだった。ただし生まれは別のところだろうと」  その修之輔の返事を聞いて、弘紀の顔が翳りを見せた。 「……私の母は、羽代に来る前に一度、伊勢に輿入れしていたそうです。私が食べている生姜糖は、そのころ世話になった伊勢の商人が母を偲んで、毎年送ってくれているものです」  江戸参勤の時に会ったという御師が修之輔のことを月狼と、弘紀の母のことを日輪の巫女と呼んでいたことを思い出した。  思いがけなく弘紀の母の来歴にも絡む話になり、修之輔は思わず足を止めた。その修之輔の正面に回り込んだ弘紀が、いつになく余裕のない顔で修之輔に訴えた。 「貴方一人で深入りしないで下さい。きっと私にも関係があることなのです」
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