第1章 初春の青海

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 修之輔が竜景寺へ行ったその翌日には、この年初めての練兵訓練が行われた。  三の丸の広場では朝から太鼓やラッパの音が響き、徒士兵が合図に合わせて行進したり銃を構えたりといった動作を繰り返している。隊列を組む集団での訓練の他、数人で剣術を磨くものや槍を持つ者もいる。  数年前までは刀を振るうことすら覚束無い者もちらほらいたが、その頃に比べれば雲泥の差である。  修之輔は馬術の指導役として番方の騎馬兵の訓練に立ち会っていた。  修之輔には黒河で修した剣術の免許状があるのだが、羽代には修之輔ほどでなくても剣術に秀でた者は他にいる。特に外田や小林などは参勤の折に江戸の剣豪たちと研鑽する機会を得て、剣の腕に磨きをかけていた。  一方で馬の扱いに慣れたものが羽代には少なく、そちらの指導を優先してほしいと番方から依頼を受けた修之輔が馬に乗りなれない下士の身分の者達に馬術を教えていた。  騎馬兵と徒士兵の動きを合わせる訓練が始まる前、剣術の指導を切り上げた外田が修之輔の側に来た。 「儂は馬なんぞ荷運びしている駄馬しか牽いたことがない。どうも牛とあまり変わらない生き物だったが」  外田は修之輔が使っている残雪という馬を眺めながらそんなことをいう。興味を持っているようだが馬には触れようとせず微妙な距離を保っている。 「牛よりもだいぶ賢い生き物です」 「秋生の言う事なら聞くんだろう。儂が野菜を運ばせていた馬なんぞ機嫌を損ねれば人に噛みついたり、地面に寝転がって動かなかったりしておったわ。あんなので戦の役に立つのか」 「馬にも戦に向く馬と向かない馬がいると馬喰から聞いています。城にいる馬は皆、人の言う事を聞く馬ばかりです」 「そうはいってもなあ」  横目で残雪を見た外田は、残雪が首を振ると慌てて視線を外して自分の刀の柄を握った。 「儂は剣術一本でいく。馬は秋生に任せる」  修之輔と外田が並んで視線を向ける先、次第に集まる兵士の中に恰幅のいい山崎の姿を探したが、見つからなかった。 「外田殿、山崎殿は今日の訓練に来ているのですか」 「山崎か? さっき誰かと話し込んでいたな。皆が揃う頃にはあいつもこっちに来るだろう」  先日の竜景寺査察の件について山崎に一言あった方が良いと思っていたのだが、皆がいるところで持ち出す話ではない。日を改めた方が良さそうだ。 「そういえば秋生、八幡様の正月祭りは十日後だったか。秋生はその日も警固の任か」 「はい。外田殿はその時はどこに」 「儂は浅井宿の見廻りだ。どうも浅井宿辺りの農民が騒いでいると宿場の役人から報告があった」  外田は番方の十人組頭を務め、荒事の仲裁だけでなく小競り合いの鎮圧も行う。修之輔の所属する馬廻り組には儀礼的な側面があるが、外田の任務は力づくを伴うことが多々ある。正月早々にも城から番方を遣らなければならないという不穏な状態は、羽代だけでなく、この国の各地で生じていた事態だった。 「八幡様の正月の祭礼には参列したかったのだが、仕方がない」  外田は眉をひそめた。同時に半鐘が割れんばかりに打ち鳴らされ、訓練の再開が知らされた。  羽代城の城下町にある矢根(やね)八幡権現(はちまんごんげん)は、羽代に住む者から八幡様と呼ばれて慕われている。神社は羽代の城下町にあって、町の商人や漁業を営む農民の信仰を集めていた。  もともとは海神(うみがみ)を祀っていた名も無く小さな社だったが、西から源氏が勢力を伸ばしてきたときに八幡神が勧請されて八幡神社となった。足利将軍の時代には漁民が海から阿弥陀如来の木像を引き上げ、これこそ本地垂迹、八幡(やわた)の海を渡る八幡神(はちまんしん)の御姿だと神社本殿の脇に御堂を立てて祀り始めた。以降、神仏習合の八幡権現となって今日に至る。  最近では弘紀の政策で力をつけてきた新興の商人や、干潟の干拓を行うために羽代の各地からやってきた農民たちにも広く信仰されている。信者氏子の多さは寄進の多さに直結し、隅々まで掃き清められた境内や拝殿などに古来からの信仰が今も緩やかに紡がれ続けていることが窺われた。  修之輔は祭礼の三日前に、当日の警護の打ち合わせのために矢根八幡権現を訪れた。 「わざわざお城から足をお運びくださいまして、ありがたいことにございます」  麻の浄衣を着けた神主が低頭して修之輔たちを迎えた。八幡権現の神主は竜景寺の僧侶や神官よりも俗な雰囲気である。手が空けば毎日でも農民の漁具の手入れを手伝うという神主が、日に赤く焼けた頬をほころばせるその表情は、この地に根差した信仰が朴訥なものであることの表れでもあった。 「拝殿前で神楽舞を奉納した後、朝永様の御霊をお祀りしている御霊廟での祈祷を予定しております。その折にお侍様方のおられます場所はこの辺りとこの辺りに、また拝殿に近いところのお侍様には水干を召していただきます」  神主は神社建屋の図面を持ち出し、朱書きで武士の配置場所を記した。儀式の流れの都合上、ここにいて欲しいということだった。  竜景寺を訪れた時とは正反対の協力的な八幡宮に、どちらが施政者と寺社本来の向かい合い方だったのだろうかと、修之輔は微かな疑問を感じた。  矢根八幡権現の正月祭礼の日は、朝から青空が広がっていた。  穏やかに晴れる空の色を移して、海の色は鮮やかに青い。元旦の曇り空を思えば今日この日の空こそ正月に相応しい晴れやかさだった。  全ての儀礼の嚆矢となる祝詞の後に神楽の奉納があるのだが、羽代では代々朝永家の当主自らが一曲を奉納する仕来りになっている。これは朝永家が幕政に積極的に関わっていた頃、江戸詰めが長かった当時の当主が羽代に戻った折に江戸の祭りを偲んで舞を奉納したのが始まりだといわれている。  今年も仕来り通り、神楽を奉納するのは藩主である弘紀だ。  弘紀の身辺警護のために八幡宮から渡された浅葱の水干を身に着けた修之輔は、舞台に上がる弘紀の姿を見守った。  弘紀は頭に烏帽子を置いて、白小袖に赤い片襷、青海波の袴の上から常盤緑の小袖を腰掛けに付けている。色鮮やかな祭礼衣装を新年の風になびかせて、澄んだ冬の青空を背景に舞う弘紀の姿はその場にいる者すべての目を奪う華麗さだった。  ふと、修之輔は境内の隅の人影を見咎めた。人目を避けるかのように立木の影に半身を隠している。不審を覚えて手近なものを呼び寄せ様子を見に行かせようとしたが、一瞬陽の下に身を乗り出した人影の顔貌を捉えて思い止まった。  人影は昨年隠居した元家老の田崎だった。その身分に照らし合わせれば、参列の最前列に席が用意されておかしくない人物である。不審は消えて疑問が残り、修之輔は田崎を注視した。  弘紀が真白な小袖の袖を(ひるがえ)して、(あお)ぐ金扇が海からの風を招き寄せる。  田崎がゆっくりと腕を持ち上げて両掌を合わせ、(こうべ)を垂れた。修之輔は田崎が弘紀を拝む姿を、なにか不思議なものを見る心地で眺めた。
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