第1章 初春の青海

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 夜半の月は海上を横切り西に傾き始めている。  羽代城一の丸にある観月楼で弘紀は一人、月を眺めていた。  昔ここには天守があった。夜に煌々と焚かれた天守の篝火は沖合の船からも見えたという。  だが徳川の治世になってしばらく後、吹き荒れた嵐で羽代城天守は大破した。武家諸法度の制定された後のことだったので天守の再建は幕府から認められず、かわりに天守の跡地には見かけは一層、隠し二層の建屋が建てられた。それが今、弘紀のいる観月楼である。  海に突き出た半島の先端で小高くなった一の丸からは、天守の高さは無くても十分に遠州灘の海を一望できる。  空気は真冬の夜気に深々と冷えてはいても南に向いた観月楼に北の風は入ってこない。座敷は几帳で立て切られ、火鉢には赤々と火が熾されている。弘紀は幾つか灯されている灯明の一つに何気なく目を止めた。不規則に揺れる灯明の火を眺めていると、煩雑な日常の中では手放しがちな思考に耽ることができる。  弘紀が羽代の藩主に就いてから今年で五年がたった。  先代だった弘紀の兄、弘明が治めたのは六年と少しだった。江戸で生まれて江戸で育った兄は、先々代藩主である父、弘信の急逝にともない慌ただしく朝永の当主を継いだのだが、藩主になっても羽代の地にはほとんど戻らなかった。藩主の顔すら知らない家臣ばかりの羽代城の中は不安定で、それが内政にも外政にも顕在化するのに時間はかからなかった。  隠微に張られた何本もの緊張の糸は、弘紀が十三歳の時に一息に絶たれた。羽代の内政を二部していた勢力の片方が、弘紀の母親である環姫を殺害するという事件が起きたのである。 弘紀は生まれる前から羽代の当主となることを嘱望されていたが、その弘紀より三ヶ月ほど前に生まれていたもう一人の兄の存在が当時の羽代の勢力を二つに分けていた。  弘信は環姫のことを正式に側室としていたが、北丸の方と呼ばれたもう一人の兄の母は、その存在すら認めていなかった。噂によれば懐妊が判明したときに、弘信の意を汲んだ家臣が堕胎を強く勧めたという。北丸の方はそれを拒んだ。羽代を二つに分けた争いの種は、その時に蒔かれた。  ——それとも。  弘紀は、考える。  もっと前から、この国は、羽代は、分かれていたのではないだろうか。  灯明の灯がわずか大きく揺れて、目の端に光の反射が煌めいた。何が灯明の火を反射したのか。視線の向かう先が変われば、思考の先も移ろっていく。床の間の刀掛けには長刀が一振り。長覆輪の拵えだが装飾性に著しく欠ける。椿の鞘に透き漆、長覆輪といえども彫刻など影もない粗面の金属板が貼られているだけである。 これは弘紀が預かっている修之輔の刀だった。  黒河藩から羽代に呼び寄せた修之輔と主従の契約を交わしたときに、弘紀はこの刀を預かった。そして代わりに弘紀は修之輔に自分の刀と揃いになる新しい刀を与えた。  黒河藩。  羽代の北辺と境を共有する黒河は修之輔の出身地であり、弘紀の母である環姫の出生地でもある。環姫は現在の黒河藩主の妹だった。黒河から羽代の朝永家に嫁してきた環姫の死と共に、羽代における弘紀を取り巻く状況は危ういものとなった。毒殺や事故に見せかけた暗殺から逃れるため、弘紀は母の実家である黒河の藩主岩尾氏を頼って、一時的に黒河に身を隠した。  目の前で命を奪われた母の姿。信じていた者に裏切られ、誰を信じていいのか分からなくなっていた十五歳の自分が何を考えていたのか、今もうまく思い出せない。  けれど、初めて黒河の地に足を踏み入れたあの日のことは、今もはっきりと思い出せる。  かたん、と観月楼の表から小さな音が聞こえた。  戸を開けた者がこの建物の中に入ってくる気配。廊下の木材がきしむ音。観月楼の中を微かに風が吹き過ぎて、灯明の灯りがゆらゆらと襖に天井に影を躍らせた。弘紀は目を閉じ、自らの視界を閉ざした。次に目を開けるとき目の前には。  迷いのない足取りで観月楼の中へと進んできた者が、座敷の入り口に立ち止まる気配があった。その人物が何か言う前に、弘紀は声を掛けた。 「そのまま中に」  一呼吸おいて襖が開いた。座敷の中に入って来たのは、今夜、弘紀がここに呼び出した修之輔だった。 「その衣装、八幡宮に返していなかったのか」  弘紀と目線を合わせたまま修之輔がその対面に座る。修之輔の秀麗な容貌は夜の灯りにも明らかで、無駄のない立ち居振る舞いは目に煩いと感じることがない。身に着けているのは白灰の小袖に濃灰の袴。いつも通りに地味なお仕着せの着物を着ていても、却ってそれが修之輔の人並外れた容貌を際立たせている。  自分の動作を追う弘紀の視線を意に介さないまま、修之輔が目に留めたのは弘紀が身に着けている衣装だった。  綾が織り出された真白な小袖に、金糸で青海波紋が施された鮮やかに青い袴。八幡宮の正月の祭礼で纏った奉納舞の衣装である。腰掛けにしていた常盤緑の小袖は赤い襷帯とともに背後の衣桁に広げられ空間に鮮やかな色彩を添えている。 「せっかくなので、もう少し。この衣装でこれを奏するのも良いかと思ったのです」  弘紀は手元に置いていた笛を持ち上げて修之輔に示した。 「弘紀がその笛を聞かせてくれるのなら、ぜひ」 「そのために貴方を呼んだのです」  互いに気心の知れた笑みを含んだ言葉を交わしながら、弘紀は几帳の間から立って座敷の縁に移動した。  半月よりも満月に近づいた月が、西の水平線に近づいている。 「そちらに酒の用意があります。私は飲めないので貴方だけでもどうぞ」  手で酒器の在りかを指し示してから、弘紀はひとつ大きく息を吸い、笛を吹き始めた。まず一曲は思いついたそのままに、曲想の違う二曲目を始める前に修之輔が酒器の酒に手を付けるのを横目で見た。  冬の澄んだ夜気に響く笛の音は、波の音を透かして洋上へと延びていく。  弘紀が二曲目を終えて修之輔を振り返ると、 「笛も良いが、それより弘紀の舞をもう一度近くで見たい」  珍しくそんなことを言われた。真意を測りかねて修之輔の顔を見つめても、修之輔はただ静かに弘紀を見返してくるだけだ。酒に強い修之輔の目の色に、酔いの気配は微塵もない。 ただ、少し。 修之輔の色の薄い瞳の中に揺らぐ感情の兆しは、弘紀だから見抜くことができた微かなものだった。けれどそれに気づいた弘紀の体の内、笛の演奏を終えた余韻の火照りとは異なる高揚がさざ波のように広がっていく。 この波に安易に身を投げ出すより、漂う心地をしばらく楽しみたかった。 「それより貴方が舞ってみませんか」  弘紀がいたずらな口調を隠さずにそう返すと、 「舞を知らない」  修之輔からは思った以上に生真面目な答えが返ってきた。弘紀はちょっと考えて、思いついたことを口にした。 「秋生の剣の流派には演武がありませんでしたか」 「演武というより、形を通してさらう流れなら」 「ではそれを」  弘紀がにっこり笑って要求すると、修之輔が呆れたように弘紀を見た。 「剣はこれを」  弘紀は床の間に歩み寄り、置かれていた長覆輪を取って修之輔に渡した。 「随分用意周到だな」  修之輔はそう呟いて立ち上がり、弘紀は少し離れた場所に座って笛を吹き始めた。  修之輔が免状を持っている剣術の流派は明雅流という。  修之輔の師範であった宗源師は、黒河に古くからある佐宮司神社の家系だった。剣を祀る佐宮司神社には古くから独自の剣術が伝わっており、それが明雅流の元となった。弘紀は黒河にいた時に修之輔からそんな話を聞いていた。ずいぶん昔のことのように思えるが、まだあれから五年しか経っていない。  修之輔が鞘のままの長覆輪の長刀を横一文字に構え、笛の音色の高まりに合わせて大きな動作で刃を回す。片足を前に出して踏み込んで。残りの足を引き付けて。  修之輔は細身ではあっても上背があり、剣術で鍛えた紛い物ではない均衡のとれた体をしている。そして冬の月の光を凝らせ集めたような端正に整った怜悧な顔立ちは、剣術の形の流れであってもその動きを十分に鑑賞できるものにしていた。  しばらく修之輔に動きには弘紀が即興で吹く笛の音に合わせる躊躇いがあった。  修之輔の形の動きに笛の音を合わせるのか、笛の音に修之輔の剣舞を合わせるのか。互いに無言で図り合うそのうちに、弘紀が奏で始めた旋律と修之輔の仕草が重なった。  剣を振る腕の流れに、足さばきの速さに、弘紀の笛の音が重なり絡む。 長く伸びる音色に剣先は後ろに大きく引かれ、踏み込む足音は目まぐるしく刻まれる笛の音に律動をもたらす。この剣舞のためにこの曲があり、この曲のためにこの剣舞がある。  剣舞と曲の重なりは、次第に融合の高揚を二人にもたらした。  笛の旋律は次第に複雑な綾を成し、鼓動は呼応して速度を増して互いの呼気がまるで耳元に聞きとれる。存在の全てを重ねて一つに。絡み合う身体、溶けあう互いの熱。    修之輔が形を演じ終え、弘紀の笛の旋律も同時に終わった。 「……弘紀、その曲は」  そう問いかけながら、修之輔は弘紀の頬に触れてくる。弘紀は呆然と陶然が入りまじった呆然とする心地のままで修之輔を見上げた。 「むかし、母に教えてもらった曲です。他の誰にも伝えてはならない、と」
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