第2章 黒土の熾火

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第2章 黒土の熾火

 正月は慌ただしく晦日を迎え、二月の風が羽代に吹き始めた。  陽だまりでは早咲きの梅の花も蕾の先が綻びつつあった。波を光らせる陽の光も穏やかな早春の気配とは裏腹に、先年から持ち越した領地内の小競り合いに収束の気配は見られなかった。 「ある程度以上の集落になると、必ずそこに争いの火種があるといって良いでしょう」  二の丸御殿の藩主執務部屋で、弘紀は筆頭家老の加納の報告を受けていた。加納は代々朝永家に仕える旧家で、今は三十代半ばの加納久右衛門がその任に就いていた。 「争いの原因となっているものは何か」  弘紀からの問いに、加納は速やかに返答する。 「年貢の評定への不満がほとんどです」 「ほとんど、というからには、他の理由もあるだろう」  年貢の負担についての不満はいつの世も絶えることはない。これまでは藩の役人と村の庄屋の話し合いで折り合いをつけてきた事柄だった。ここにきてそれらが抑えがたい騒ぎになるには、他の原因があるはずだった。  加納は手元の書類に軽く目を走らせた。 「他の理由はすべて年貢への不満に収束しています」 「例えばどのように」 「土地がやせているから思うように収量が上がらない、収量が上がっても小作には自分の取り分がない」 「土地は農民のものではない。地主は土地を皆に平等に分け与えるようにと命じたはずだが」 「一時は命令に従っても、やがてまた持つ者と持たざる者の差が生じてきます」 「その格差をなくすために年貢の歩合を決めたはずだが」 「小作の中には自分の土地を放棄して地主の下で耕作をすることを望む者がいて、問題を複雑なものにしています」 「土地はそもそも天子様のもの。徳川様がその管理を我らに委ねられればこそ、地主であろうが土地の私有にあたる行為は認められない。それこそ我らが取り締まるべきことだろう」 「左様です」  加納が首肯する。  ここまでの弘紀と加納のよどみないやり取りは、執務部屋にいる他の家老や、高位の役に就いている者達に聞かせるためのものでもあった。  敢えて弘紀も加納も口にしていないが、今、羽代の内側には徳川の治世への非難を明らかに口にするものがいる。尊王攘夷の思想は、京からも江戸からも距離のある、ここ羽代でも勢いを得つつある思想だった。しかし幕府への非難は、朝永家による羽代の統治をそのまま否定することにもつながりかねない。  尊王攘夷の思想を隠れ蓑にして、弘紀の母の死をもたらした過日の騒動を、再び蒸し返そうとする勢力がうごめていることこそ、最も警戒すべきことだった。  弘紀は目を軽く伏せた。  ここで弘紀が誰かを見てしまうと、そこから余計な猜疑の種が広がってしまう。名指ししない糾弾にどれだけの効力があるのか分からないが、それでも藩主として羽代家中に言っておかなければならないことだった。 「また身分に異議を持つ者達に接触し、火種を煽っている存在があるようです」 「羽代の者か」 「いえ、どうやら外部から入って来た者のようです」 「ならば浅井宿か」 「はい。宿場の役に就く者に聞いたところ、攘夷を語る他国の武士が宿に人を集めていることが頻繁にあるそうです」 「他国を脱藩した浪人か」 「それがそうでもないようです。浅井宿が毎日提出する宿帳には、しっかりと出身も姓名も書かれていると。藩の上司公認で東海道を行き来して、行く先々で攘夷論者を増やしているとのことです」 「その出身とは」 「主に西の長州や薩摩に連なる者ですが、一概にはそうとも言い切れません。そもそも他藩の者との交流は、各々の知見を広める良い機会だと弘紀様が敢えてお認めになったのに、それを逆手にとって徳川幕府に仇をなす者達と情報交換の場を設けるとは、甚だしく無礼な行いかと存じます」  加納にしてははっきりとした非難の言葉がその口から発せられ、それは弘紀にとって少し意外なことだった。  羽代領内に頻発する農民と庄屋や地主との小競り合いは、羽代の内部に余計な混乱を引き入れる隙になってしまっている。  農民が持つ解消しきれない現状の不満を徳川幕府への批判にすり替え、尊王攘夷の思想をもつよう誘導している存在があることは、加納とは別の方から弘紀は既に報告を受けていた。  弘紀は脇に置かれた汲み出しを取り、冷めた茶を一口飲んだ。そして、 「浅井宿の見廻りをこれまでより強化し、尊王攘夷を声高に語る者は役所に呼ぶなどの対策を講じるように」  そう命じると、加納の他、番方を指揮する西川が平伏した。 「恐れながら弘紀様に申し上げます。浅井宿への見廻りには定期的に番方から小隊を派遣しています。最近は十人組頭の外田や小林がよく働いておりますことをご報告いたします」  知っている名前が出てきたことに弘紀の眉が微かに上がる。  外田や小林の名は修之輔との私的な会話の中で出てくるので弘紀も知っていたが、今、この場で家老職にあるものが口にすべきことではなかった。自分の配下の手柄を報告して褒美を得たいという魂胆が透けている。  昨年、高齢の親から家督を継いだばかりの西川氏は加納より二つほど年下で三十代になったばかりだった。言動に軽薄なところが時折見られ、その度に加納から冷ややかな視線を向けられている。  弘紀は西川の言葉には直接返答することを避け、 「尊王攘夷の考えの前に、まずは我らが徳川様のご恩に対して奉公すべきことを忘れてはならない。今後も領内に争いの兆候が見られれば随時、見落とすことなく鎮圧に向かうように」  そう周りにも確認して、合議を解散させた。  次の合議までの四半刻ほど、弘紀は二の丸御殿の奥にある私室に下がった。  直ぐに、 「御召し物の御針が終わりましたのでお持ちいたしました」  と女人の声が聞こえてきた。 「中へ」  弘紀がそう云うと、濃紫の小袖に簡素な帯を締めた針子姿の女性が姿を現した。糸仕事が終わったというが、その手には手拭い一枚も持っていない。背後の襖を閉めて弘紀に相対したのは、二十五、六の女ざかりともいうべき艶が滴るような女人だった。 「加ヶ里、どうだった」  弘紀は気安く女人に声を掛けた。加ヶ里という名のこの女人は、今は隠居している家老の田崎の配下で弘紀が幼少のころから弘紀の身辺を守ってきた護衛だった。  加ヶ里は主であった田崎が隠居してからは弘紀の頼みで動くことがあったが、それも田崎が加ヶ里に弘紀の命令を聞くように、と指示してのことだった。  今回も弘紀は加ヶ里に竜景寺付近を内々に調査するように命じていた。 「弘紀様、竜景寺にはいろいろと人の出入りがございました。秋生様のご報告の通りです」  加ヶ里はその来歴のせいか、現在弘紀の身辺を守る役目にある修之輔に敵愾心を抱いているようだ。時々弘紀が修之輔といるときに加ヶ里と会うと、加ヶ里は理由なく修之輔を睨んで、睨まれた修之輔が気まずそうな表情になることがある。  だからと言って加ヶ里は修之輔の仕事の邪魔はしない。変な関係だと傍から見ていて弘紀は思うが、そんな修之輔と加ヶ里の関係性は初めて彼らが顔を合わせて以来ここ数年、全く変化してない。 「何か気づいたことは」 「竜景寺の山の中に、馴染みのない農民が入り込んで木を切っているそうです」 「木?」 「ほら、弘紀様が樟脳を集めたいとおっしゃったでしょう、あれで楠が金になるんじゃないかと血眼になって、山から楠を切り出し商人に売る農民が増えているようです」 「それは竜景寺の方から訴えがない限り、こちらはどうしようもない」 「竜景寺は訴えていいはずなのですけど、訴えるようすもございません。また何か企んでるんじゃないかと思いますが、どうでございましょう」 「山の方にまで人を回せるのか、あとで加納に聞いてみる」 「あとは」  そこまで言いかけた加ヶ里の口が止まった。 「その竜景寺にけっこうな頻度で通っておられる殿方がおられました」  少々顰められたその声に弘紀の視線はやや下を向く。 「……寅丸か」 「そうでございます」  寅丸とは、羽代の城下町に剣道場を構えている下士の名である。 「何をしているのか、分かるか」 「まだわかりません。なので、これからも調査を継続してよろしゅうございますか?」  弘紀が声には出さなくてもはっきり頷くと、加ヶ里は頭を下げた。そして異なる声音で弘紀に尋ねた。 「ね、弘紀様。秋生様は寅丸様のこと、ご存じなのですか?」 「……あの人は、知らない」 「どうされるおつもりですか?」 「私自ら、いつか話ができたらと思う」 「いつか、ではなくて、できるだけ早いうちが良いと思います」 「けれど寅丸は秋生の友人だ」  あら、と加ヶ里が呆れたような声をあげた。 「秋生様のご友人であろうと、あの寅丸がかつて弘紀様の命を狙った刺客であったことには変わりはございません」  加ヶ里の目が強く光る。  弘紀は加ヶ里の視線から顔を背けた。  かつて黒河藩に身を隠していた弘紀を殺すため、羽代から刺客が送り込まれた。ほとんどが修之輔によって弑された彼らの内、表には出ずに修之輔の刃を免れ、逃げ延びた者がいた。  それが寅丸だったということを、弘紀は未だ修之輔に伝えられずにいた。
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