第2章 黒土の熾火

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 その後に加納がまとめた竜景寺関連の公的報告書や加ヶ里の内偵によって、竜景寺が不穏な状況にあることは確定された事実となった。  竜景寺は弘紀の次兄である英仁と深い関わりがある。英仁の母は浅井宿に代々続く大きな商家の出で、羽代城の奥に女中として上がっていたときに参勤交代で国許に戻っていた弘紀の父、先々代の当主である弘明との間に英仁を身ごもった。  だがその半月後には環姫が羽代城の奥に入ることが決まっていたため、羽代家中の大部分どころか弘明本人もその懐妊をまったく喜ばず、むしろ疎んじた。英仁の母は弘明の意を受けて何度も遣わされた医師や薬師による堕胎の勧めを断り続けた。  その背景には、浅井宿の大店の財力があった。  東海道の物流の中間地点にある浅井宿には古くからの商人が財を蓄え、豪商と呼ばれるものが何人もいた。英仁の母の生家はそんな豪商の一つだった。  長らく続いた武士階級の支配に不満を持ち始めていた商人は、これが羽代の内政に食い込める機会だと当主ご落胤の誕生を強く望み、竜景寺は積極的にそれを支持した。竜景寺は浅井宿の商人の信仰を一身に集め、資金のほとんどが浅井の商人の寄進によって占められていたのである。  長い歴史を持つ浅井の商人の意地と武家の慣習の対峙は、羽代城の奥で二人の女性に重くのしかかった。その軋轢は結果として、英仁の母による環姫の惨殺を引き起こした。  そのような過去の経緯から、現在の当主である弘紀には竜景寺には解消しきれない積年のわだかまりがある。  一方で弘紀は、当主の座についてから羽代城の目前に広がる海を使った海運に商機を見出していた。  羽代藩は自ら大型の弁財船を擁して江戸への荷を陸路よりも迅速に運び、また江戸からの荷物を陸路よりも大量に詰める海運を発展させるために港を整備した。西国の商人を介して外国に茶葉を売る販路を確立できたのも、この港の整備のよるところが多い。近いうちに商人を介さず直接外国との取引を始める手はずになっていた。  羽代の城下町は若者が自分たちの商いを新たに始めるようになり、海運の町としての性質をもつようになっていた。  浅井の商人は、この新興の商売人たちを自分たちの商売敵とみなして快く思わなかった。軋轢は古くからの浅井の商人と、羽代城下の商人との間にも生まれつつあった。  竜景寺の不祥事を機会にして一気に浅井の商人までを抑え込めばいい、という意見は、主に弘紀の江戸参勤に随行した家臣たちに多い意見だった。海外との貿易の有益性を実感していた彼らは、外国を排斥する攘夷の思想には懐疑的だった。  その反対に、羽代の地に昔から住む家臣たちの中には苦しい家計を浅井の商人からの信用貸しで凌いでいる者もいて、彼らは商人の意見によく触れている。商人たちは今の身分に満足をしていないことを明らかに口に出し、尊王の思想を引き出しに、これまでとは異なった身分制度の枠組みを要求している者もいた。  羽代の内部に渦巻く様々な要素が絡み合い、つながり合って羽代を二つに割こうとしている、今はそんな状況だった。  弘紀は暦が二月に入ってからもそんな状況の把握と調整に時間を取られ、気づけば修之輔と半月近くも顔を合わせない日々が続いていた。だから久しぶりに修之輔を私室に呼んだ夜、修之輔を前にして弘紀は珍しく話す言葉に戸惑った。  修之輔は弘紀の様子を見て察したらしく、 「茶を淹れよう」  そういって、懐から紙に包まれた茶葉を取り出した。修之輔の友人である木村が、先日修之輔を訪れた時に置いて行ったのだという。  弘紀の手元の火鉢には小ぶりの鉄瓶がかけられていて、静かに蒸気を吹き上げている。  熱湯を一度器にとって温度を下げ、茶葉の入った急須に湯を入れる。抹茶の作法よりも簡素だが、手順通りに道具を使って煎茶を入れる修之輔の様子を見ていると、弘紀の余計な焦りは緩やかに逸らされた。  汲み出しに翠色の茶が注がれ、茶托に置かれて弘紀に差し出される。  一口飲んで温かさに喉の緊張が和らぎ、もう一口飲んで舌のこわばりが緩むように感じた。  忙しくてもこれまでのように修之輔に会いに行こうと思えば行けたはずだった。それをしなかったのは忙しさを言い訳に先日の加ヶ里の忠告から目を背けていたかったのが本当の理由だった。  もう一口、弘紀は修之輔が淹れた茶を口に含んだ。素朴な羽代の昔からの茶の香り。  息を吐いてから、弘紀は修之輔に問いかけた。 「寅丸とは、最近会いましたか」  修之輔は修之輔で、いつもより緊張している弘紀の様子を気にしていたのが明らかだった。弘紀のその問いに表情が少し和らいだように見えた。 「数日前に寅丸の剣道場に行って、打ち合ってきた」 「貴方一人で、ですか?」 「いや、馬廻り組に配属されている部下を何人か連れて行った」 「どうでしたか」  具体的ではない弘紀の質問にも修之輔は生真面目に答えてくれる。 「やはり道場で個人として腕を磨くのと、組織として訓練し、鍛えられた剣術は違うものだな」  その修之輔の言葉は、羽代で行われている軍事訓練の他、参勤の折に江戸で得た経験によるものだろう。  今の修之輔がそんな考えを持つに至った経緯を知っているのは、自分しかいない。  ふと、弘紀の頭の中にそんな考えが浮かんだ。修之輔は弘紀に分かる程度、その怜悧な目に笑みを浮かべて弘紀を見ている。  なんとなく、自分の考えていることが修之輔に見透かされている気がした。 「道場にいた者たちは貴方達の相手にはなったのですか」  修之輔が軽く首を振る。  道場主とはいえ指導を行わない寅丸の門下生と、日常的な訓練で修之輔に直接鍛えられている馬廻り組の者とでは確かに実力の差は大きいだろう。 「その代わり、番方で山崎殿や外田殿が鍛えた者達とはいい勝負になった」 「番方の者達も一緒にいったのですか」 「ああ。以前、あの道場で世話になったことがあるからと」 「けっこうみんな、行っているんですね」  弘紀のその言葉を聞いて、修之輔の口調が少し、固くなる。 「弘紀、自分も行こうとは思うな」 「……はい」  修之輔の心配は必要のない心配だったけれど、それを単純に嬉しいと弘紀は思った。素直に自分のことを心配してくれるのは、羽代の中で修之輔だけかもしれない。  思いがけずに軽くなる心の片隅で、弘紀の当主としての思考が囁く。  ——寅丸にこちらの手の内を明かすことになるが、力の差が歴然としているうちはそうたやすく事を起こそうとは考えないだろう  そんな瞬時の間を修之輔は見逃さず、どこか気づかわし気な表情で弘紀の顔を覗き込んできた。話すべきなのは今ではない。弘紀は思考を切り替えた。 「秋生、他には何か」  弘紀がにっこりと笑みを浮かべて修之輔を見ると、今度は修之輔の表情に戸惑いが浮かんだ。それはそれで弘紀には意外なことだった。 「秋生、何かありましたか」  膝を進めて弘紀は修之輔に重ねて聞いた。このぐらい強めに言わないと修之輔はいろんなことを自分の中に閉じ込めてしまいがちだ。 「弘紀、その」 「はい」  修之輔が意を決したような表情で、弘紀に尋ねた。 「田崎様は、最近お体の具合が良くないのか」
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