第2章 黒土の熾火

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「田崎ですか」  修之輔が頷く。  田崎は弘紀の世話役として、弘紀が幼いころから近くにいた存在である。弘紀の朝永家当主襲名にも多大な貢献をした。田崎は先年、高齢を理由に家老の職を辞してそのまま隠居の暮らしを始めていたが、職を辞してから周囲と交流を断つようになっていた。 「正月の松の内に田崎の下に人を遣りましたが、取り立てて何か具合を悪くしているということは聞いていません。どうかしましたか」  弘紀に尋ねられて修之輔は軽く目を伏せ、言葉を慎重に選んだ。 「街中を歩いている姿をよく見ると、番所の者から報告があった」 「散歩でしょうか」 「それが供をつけずにお一人で歩いておられるらしい。名を呼び、声を掛けても気づかないことも度々あるようだ。屋敷に雇われている小者も、このところの田崎様の変わり様に戸惑っていた」  田崎の変調は体調ではなく、精神に現れている。  そう告げる修之輔の言葉に、弘紀も目線を手の中の汲み出しに落とした。 「田崎が、ですか」  弘紀の当主就任は、次兄である英仁から執拗に妨害された。田崎は強硬な手段でそれに対抗し、英仁の勢力を退けた過去がある。田崎の強硬な手段の内には、英仁を支える有力な者の暗殺も選択肢に入っていた。  朝永家の跡目争いは環姫の殺害で表面化し、田崎による羽代家中の粛正によって激化していた。そして田崎が羽代の出自ではなく環姫付きの護衛として羽代にやってきた者であったこと、すなわち余所者であったことが問題をより深刻なものにしていた。  だが田崎のそのような公にできない行動の結果、弘紀が羽代の藩主となったことは否定できない事実だった。  田崎の環姫に対する献身は、環姫を殺害した妾を袈裟懸けに切り殺した後も弘紀の世話役に就くことで継続されていた。先年の修之輔による英仁の暗殺は田崎の指示によるものである。長年世話役として弘紀の側に仕えていた人物とはいえ、田崎を語るときには自然に声が低くなる。それは弘紀にとっても例外ではなかった。 「……田崎の面倒を見るのは、本来なら田崎の家の者ということになるのでしょう。けれど田崎は羽代の出自ではなく、羽代で家族を持つこともしませんでした。親族と呼ばれるものは田崎の出生地にはいるのでしょうが、私は聞いたことがありません」 「田崎殿の出自は西の方だと聞いている。確か弘紀の母上の」 「はい、田崎は伊勢の出身で、彼の地で母の護衛の任を拝命し、以降、羽代の地までずっと母に従ってきました。……故郷に帰る気は全くなかったのでしょう」  伊勢という土地の名に修之輔が微かに反応した。気づいた弘紀は修之輔と目線を合わせた。 「田崎は黒河に伝わる月狼の神話についても何かを知っていました。けれど何も語ることなく城を出てしまいました」 「今の田崎様のご様子だと改めて聞き出すことも難しいだろう」  修之輔の口調の確かさに弘紀は首を傾げた。 「田崎に会いに行ったのですか」 「ああ。先日の竜景寺の神官の件があったので、船番所への連絡ついでに行こうと思った」  その船番所で修之輔は田崎の奇行を聞いたのである。  八幡宮祭礼での影の薄い姿も気になっていた。修之輔は船番所の役人から一通り田崎に関する話を聞いた後、人通りの多い城下町を避け、浜辺を歩いて田崎の屋敷に向かった。  二月の波の音は真冬に比べて穏やかに、春の季節が近いことを知らせてきた。  修之輔がふと足を止めたのは、羽代城の断崖に住み着く鶚が思いがけず近くを飛ぶ姿を認めたからだった。鶚の大きな翼の羽一枚一枚が日を透いて白く光る。向かい風を受けて空中の一点にとどまり海面を凝視するその様子に、狩りの気配を察した。  つ、と羽ばたきを止めた鶚の体が垂直に海面に落下する。次の瞬間、波しぶきを立てて鶚は海中に突入したかと思うと足爪に大きな魚を引っ掛けて再び空中に浮上した。  ——海鷹は翼が潮に濡れても、再び空に飛びたてる力を持っているのです。  いつか弘紀が話していた言葉が耳に蘇る。  鶚の鮮やかな狩りの腕前に思わず視線を奪われ、獲物を下げて羽代城へ飛翔する姿を追った修之輔の視野の中に、虚ろな目で海の彼方を眺める田崎の姿が映された。  それは最早他人と話を交わすことを放棄し、自らの内省の言葉も放棄した人間の抜け殻のような姿だった。 「加ヶ里は以前、田崎の配下でした。田崎の下で働いていた他の者達に連絡が取れるか、加ヶ里に聞いておきましょう」 「それならば田崎様の配下だった原殿が今、番方で訓練に出ているが」 「では、貴方の方から原に声を掛けていただけませんか」  修之輔が頷く。 「それから黒河の伝説については、礼次郎に手紙を出して尋ねてみようと思います。近頃礼次郎には子が生まれたとのことなので、その祝いの手紙に添えておきましょう」  田崎の心身の状態がどうあれ、正気の時であっても頑なに語ることを拒否していたことを踏まえ、弘紀は黒河滞在時に友人だった澤井礼次郎に黒河の伝説を尋ねるつもりでいた。  けれど。  訊かなくてもいいこと、訊いてはならないことだと思っていても、弘紀は修之輔に尋ねずにはいられなかった。 「黒河に生まれ育ち、土地の佐宮司神社に所縁が深い貴方が、黒河に伝わるというその伝承をまったく知らないというのも妙な話だと思っているのです」  弘紀と修之輔の目が合う。  切れ長に整う修之輔の目。人並外れた秀麗な顔立ちであってもその表情が冷たくなり過ぎないのは、微かに眦が下がる奥二重の瞼と睫毛が落とす影のせい。  その睫毛の後ろに覗く明るい褐色の瞳がふいに光を失った。  弘紀はそれに気づき、すぐに話題を変えた。 「黒河の伝承については礼次郎からの返信を待ちましょう。それよりも貴方にお願いしたいことがあります」  弘紀は修之輔の膝に手を置き、微笑んだ。 「貴方には、私の目になって欲しいのです」  修之輔の瞳に光が戻る。それを確かめて弘紀ははっきりと告げた。 「他の誰からでもなく、私が直接貴方に命じます。この羽代の中で何が起きているのか、貴方の目で見てきたことを私に報告してください」
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