第4章 朱赤の凶雲

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 両手を後ろ手に縛された修之輔が連れていかれたのは、羽代城北の丸にある平屋の建屋だった。中には丈夫な格子が屋根から床を貫く牢部屋が三つ設けられている。いずれも座敷牢で、懲罰というよりは取り調べのために使われることが多い。  先代当主の時は政権争いがあって空くことがなかった三つの牢は、弘紀の代になってからは数えるほどしか使われていない。 あ  修之輔は下働きをしていた頃にこの牢の掃除をすることもあった。なので、どことなく懐かしい気持ちすら覚えて牢の中を見回した。牢の中は畳が三畳、板の間が一畳の広さである。天井が高めに上げられているのは、投牢された者の逃亡を防ぐためである。  格子の外には牢番が立つ土間があり、土間の上の屋根には狭く開いた明かり取りがある。九月二十日を過ぎた今の時候は、強い日の光が遮られ、代わりに海からの風が入ってくる。居心地は悪くなかった。  それも道理で、この牢屋は以前、弘紀の異母兄であった英仁とその母の住居だった。  弘紀の父である先々代は、弘紀より三ヶ月ほど早く生まれた英仁を自分の子とは認めず、二の丸御殿の奥に入ることを許さなかった。けれど江戸在勤が長かった先々代当主の目を欺くように、英仁母子は北の丸の住居に住み続け、城を出ようとしなかった。  牢としては環境の良い、けれど住居としては暗く陰気なこの建屋の中で、彼らがどのような日々を送っていたのか。  修之輔が牢に一人いる時間が長ければそのようなことにも考えたかもしれない。だが。 「秋生様、馬廻り組の差配はこれまでどおりで良かったでしょうか」 「様子を見に来たが、大丈夫か」 「秋生、何か要るものがあればお前の部屋から持って来てやろうか」  ひっきりなし、というわけでもないのだが、頻繁に誰かしら牢にやってくる。 「秋生殿、お仕事休めていいですね」  久しぶりに顔を見た気がする同期の三山などは、むしろどこか羨まし気に牢の中を覗き込んできた。  牢番が追い払うのかと思えば、牢番はむしろ顔見知りが来ればそれに持ち場を預け、喫緊の事態である暴動鎮圧の出兵の後詰めを手伝いに行ったりと、全体的に監禁の緊張感が欠けている。羽代城警固を預かる馬廻り組組頭の役目にある修之輔は、さすがに少々苦言を言いたくなった。  おそらくは珍しい物見たさで牢屋にやってきた羽代の藩士達だが、陽が落ちていくにつれてその姿も途絶えた。牢屋本来の状態である静けさの中、羽代城が立つ岸壁を打つ波の音が聞こえてきた。  灯りは座敷牢の中にはなく、土間に一つ置かれているだけである。牢番が任務交代のために建屋の玄関の外に出て戸を立て切ると、牢屋の中には修之輔一人だけになった。  役目から一時的にしろ外された焦りも、罪に問われた不安も感じなかった。  それよりも。  陽が落ち切って夜となった暗がりの中、冷えた秋の夜風がどこからともなく吹き込んできた。心許なく揺れる灯りは修之輔自身の影を、牢の格子の影を、どこから落ちているのか分からぬ暗がりを、ゆらゆらと揺らして輪郭をあいまいに溶かしていく。  閉め切った戸が微かなる音は、人の気配にも風に飛ばされた枯葉が当たる音にも聞こえて、意識しまいと思っても耳は鋭敏に音を拾い始めた。  牢の建屋に吹き込む風の音は、時に修之輔の耳元で人の息にも似た音になる。揺れる昏い火は、修之輔の内の混乱を掻き立てる気配があった。  修之輔が生まれ育った黒河で。  修之輔の生家も似たように暗い家だった。  顔も思い出せない母。顔を思い出したくない父。覚えることを放棄したいくつかの顔。  今のような真っ黒な夜に、油を吝嗇(けち)っていつ消えるか分からないほど頼りない灯りが揺れていた。その火がそれでも絶やされずに灯され続けたのは、そこで行われた暴力を映すため、ただそれだけの理由だった。  痩せた姿、太った身体、壮年、まだ若い者、すり切れた着物、身形の良い武士。  太い腕、背、剥き出しの肌。  あの家で、暴力の全ては修之輔一人に向けられた。  理由は、知らない。  修之輔は文字通りの生贄だった。  黒河に波の音は聞こえず、ただ深い山の底に悲鳴は沈められた。  けれど月の光は。 「あ、あとは私がやるので」  不意に牢屋の外で声が聞こえた。がたがたと戸が開き、入ってくる人影がある。 「お前がやるっていったって、鍵が無ければお前は何もできないじゃないか」  その鍵の音を鳴らすのは交代になった牢番だろう。修之輔はその声に聞き覚えがあった。 「じゃあ早く開けてください」 「勝手なこと言うなよ弘太、仮にも城の牢だぞ」 「その城の奥の滝川様のご用事を言いつかっているのです」 「だからといって秋生を牢の外に出すわけにはいかない。お前が牢の中に入れ」 「それでいいです」  聞き覚えがあるのは牢番の声だけでなく、弘太と呼ばれ、城のお仕着せの小袖袴を身につけて変装した弘紀の姿が目の前にあった。  牢番は何の躊躇もなく修之輔の入っている牢の鍵を開け、よいしょ、と口にしながら弘紀が牢の中に入ってきた。 「弘太、これ、差し入れか」  その後から牢番が弘紀に何かを手渡し、弘紀は手際よくそれらを受け取って牢の畳の上に並べていく。最後に皓々と明るい行燈を運び込むと、弘紀は牢番に言った。 「滝川様から、ご用事は内密に、とのことです。外で待っていてい下さい」  牢番は、藩主その人とは気づかないまま弘紀と修之輔との顔を交互に眺め、これは決まりだから、と修之輔の手を後ろで縛った。 「秋生、困ったことが起きたら遠慮なく呼べよ」  牢番はそう言い残して牢の入り口の鍵を掛け、牢屋の外に出て行った。 「さて」  弘紀が涼しい顔をして牢の座敷に座り直し、行燈を自分と修之輔の間に置いた。 「今日一日ここにいて、大丈夫でしたか?」  修之輔の顔を覗き込むように見てくる弘紀の目が、先ほどまでの自分の混乱を見透かしているようにも見えた。けれど修之輔は視線を逸らそうとは思わなかった。 「特に不都合はなかった」  少しでも弘紀に気を使わせまいとした返事だったが、それを聞いた弘紀はどこか不満げな表情になった。 「貴方を牢に入れたことについて説明が必要だと思ったのですが」 「聞かせてくれるなら聞かせてほしい」  それは修之輔の本心から出た素直な言葉だった。弘紀はじっと修之輔の顔を見てどこか諦めた表情で溜息をつき、説明を始めた。 「領内で薩摩浪士の死体が見つかったのです。他殺は明らかでしたが、下手人が他藩の者だとまた面倒なことになります。今の羽代は他藩に気を配る余裕が無いのは勿論のこと、他藩からの介入は絶対に許してはならない状況です」  朝早く出立した羽代の軍は、既に竜景寺に到着している筈だった。弘紀はその知らせを受けてからここに来たのだろう。そのような背景まで察して、修之輔は弘紀に頷いた。 「なので、下手人を羽代家中の者だということにしたのです。羽代家中の者ならば私の一存で裁くことができます」  これまでの事件では、下手人の処罰を他藩に任せたために手間がかかり、余計な介入を引き寄せることにもなっていた。 「かといって、適当に家中の者を選べば濡れ衣を恥じて切腹してしまったり、その家族が自害してしまったりする恐れがあります」  当主である弘紀自らの糾弾は、それだけの深刻さがある。 「だけど、秋生、貴方は私の命令で捕縛されると聞いた時、自分の身の潔白を証明するために切腹しようとか、考えましたか?」  言われなくても修之輔はそんなことは全く思いもしなかったので、それをそのまま弘紀の問いへの返事にした。 「いや、ただ弘紀には何か考えがあるのだろうと思った」  だから貴方にしたのです、と弘紀が声をやや強めた。 「でももう少し動揺した様子を見せてくれた方が良かったのです。周りも貴方の落ち着いている様子を見て、緊張感に欠けるようですし」  そう云って弘紀は改めて修之輔と視線を正面から合わせた。 「羽代が自ら下手人を捉えたという情報が周囲に広まるまで、秋生はここにいて下さい」

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