3 35日前(父の裏の仕事)

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3 35日前(父の裏の仕事)

 桧山建設株式会社財務部 「この口座から出金した現金の使途は何なんですか?」  新村は、預金口座の明細を差し出して、吉岡に尋ねた。  午後7時を過ぎたオフィスのフロアには、吉岡と新村の二人しか残っていな かった。二人のデスクの周りだけが明かりに照らされている。 「……ただの交際費だ。」  吉岡はぶっきら棒に答えた。 「今月はもう5回も出金していますよ。」 「君は余計な詮索をしなくていい。」  吉岡は語気を強めた。 「でも、部長。会計監査があるとまずくないですか。」  新村は食い下がった。 「私も知っておくべきだと思います。」 「この話はもう止めよう。早く残りの伝票のチェックを済ませてくれ。いいな?  私はこれから山川商事の常務と会食だ。  それが済んだら今日は上がってくれ。」  椅子から立ち上がった吉岡は、濃紺のスーツの上着を羽織ると腕時計に目をやった。 「はい……分かりました。」  新村は釈然としないながらも承知した。 「そういえば、新村、いい人は見つかったのか?」  話題を変えようとした吉岡は、やや心配しながら訊ねた。 「いえ、そっちの方はなかなか……うまく行きません。  自分だけではどうにもなりませんから。」  新村はわざとらしく頭をかきながら言った。 「その内、いい女性と巡り合えると言いたいところだか、プライベートに変化がないとなぁ。」 「そうですね。」  新村は肩をすぼめて見せた。 「しかし、君との付き合いも長いな。」  吉岡はしみじみと言った。 「はい、私はこれからもずっと部長に付いて行きますよ。」  新村は鼻息荒く断言した。  この暑苦しさが新村の欠点だよな。吉岡は、改めて納得したようにこっそり頷いて、エレベーターに向かった。  吉岡は会社を出るとタクシーに飛び乗った。 「神楽坂に向かってくれ。」  そう告げると、大きなため息をついた。  タクシードライバーの世間話にも適当に返事をして、車窓の流れる光彩を何気に目で追っていた。  30分程走ったタクシーは、神楽坂の善國寺に程近い老舗の料亭の前で止まった。  タクシーを降りた吉岡は、料亭の先の路肩に止まっている、見慣れた大型のセダンの車を見つけた。  その傍らに立っている男性は、うす暗い中、羽毛の毛ばたきを手に持ち、ボンネットを丁寧に拭いていた。  吉岡は、ところどころ苔むした漆黒の門をくぐり抜けて料亭深幸の中に入ると、帯にあしらった梅の刺繍が印象的な淡紅色の和服を纏った女将が出迎えて いた。 「お待ちしておりました。鬼頭会長はもうお越しになっております。」 「そうですか。いつもの奥の間ですか?」 「左様でございます。」 「ありがとうございます。」  吉岡は頭を下げると、急ぎ足で中庭に面した渡り廊下を通って鬼頭の待つ奥の間に向かった。 「すみません。遅れました。」  吉岡が襖を静かに引き開けると、座椅子に腰掛けていた鬼頭は、丁度煙草に火を付けているところだった。 「構わん。私が早く来ただけだ。用意してきたか?」  鬼頭は煙草をくゆらせながら聞いた。 「はい。」  そう言うと、吉岡はスーツの内ポケットから白い包みを取り出した。 「会長、いつまで続けるお考えですか。」  吉岡は包みを鬼頭に手渡しながら尋ねた。 「もう暫く……。あの先生には頑張ってもらわないとな。わが社のためにも。」 「今後は正規の献金だけにはなりませんか。」  吉岡は包みを鬼頭に手渡した。  鬼頭は受け取った包みを右手の袂の奥に差し入れた。 「人が大儀を成し遂げるためには、それを支える資金が必要だ。それも、全く自由になる資金がな……  それをできるのが我々だということだ。そこに意義がある。」  鬼頭は目を細めて、床の間に掛けてある、岩山の間をゆっくりと大河が流れている様を描いた水墨画の掛け軸を眺めながら煙を吐いた。  結局、こちらも利益誘導が目的だ。それが大儀のためだというのか。吉岡は心の中で呟いた。 「それは理解しているつもりですが、自由な資金を捻出するのも中々困難かと……」 「困難?」  鬼頭は吉岡の顔を覗き込んだ。 「……はい、あまり頻繁に帳簿操作を行うと、監査で気付かれる可能性も……」 「そこを上手く切り盛りするのが君の役目だろう。今までの君の手腕には感心している。  それに見合うだけの報酬も与えているだろう。今後も万事よろしく頼む。」  鬼頭は、深いシワが刻まれた顔に笑みをたたえながら、吉岡の肩を軽く叩いた。 「そもそも、社が安定していればこそ、社員と家族の未来もあるのは事実だ。   ……だろう?」 「はい……」  吉岡は鬼頭に押し切られるように、力なく答えた。 「あの先生と我々は持ちつ持たれつだ。この関係を維持しなければならん。」 「それは分かっていますが……」 「分かっているなら、この話は終わりだ。」  鬼頭は日焼けした太い指でお猪口を掴んだ。  吉岡は、徳利を持ち上げて日本酒が入っていることを確認すると、鬼頭のお猪口に注いだ。  鬼頭は注がれた酒を一口で飲み干すと、再び煙草をくゆらせた。 「そう言えば、通りの向こうに運転手の筧さんがいましたけど、帰りも乗って行くのですか?」  吉岡は思い出したように尋ねた。 「ああ、今日は長居をする気はないからな。」  その後、当たり障りのない雑談をしてから鬼頭のいる奥の間を出ると、重たい足取りで玄関へ向かった。  その途中、渡り廊下で辰巳代議士の秘書とおぼしき人物とすれ違った。  吉岡はすれ違いざまに軽く頭を下げた。  相手は吉岡の事を知ってか知らずか、視線を合わせようともせずに、鬼頭の居る奥の間の方へと足早に消えて行った。  深幸を後にした吉岡は、気分転換するために両肩を2、3度上げ下げさせた。  通りの向こうを見ると、セダンは来た時と変わらずに路肩に止まっていた。運転手の筧は、運転席に座り仮眠をとっているように見えた。  都心とはいえ、この辺りは静寂が支配して、時間がゆっくり流れているような錯覚に陥ってしまう。  新村はもう帰宅したかな。吉岡は腕時計で時刻を確認すると、スマホを手にした。 「お疲れ様です。新村です。」  新村はすぐに応答した。 「お疲れ様。吉岡だけど、もう、家に帰ったかい?」 「いえ、まだです。今、池袋の駅にいます。」 「少し付き合わないか?俺が持つから。」 「ごちそうさまです。場所はどこにしますか。」 「池袋でいいぞ。これから20分位で着くと思う。いけふくろうで。」 「了解しました。いけふくろうで。」  行き交う人の数も徐々に減り始めたJRの池袋駅にたどり着いた吉岡は、北改札を抜けるといけふくろうの像の方に向かった。  落ち合う場所はベタな場所がいい。分かりやすくて。  いけふくろうの像が視界に入ってくると、像と並んで立っている新村を見つけた。  このフクロウの像は、真ん中の大きな像より隣の小さな子フクロウの像の方がフクロウらしい。フクロウは森の哲学者と言われるだけあって目つきは聡明だ。でも、顔全体から醸し出される雰囲気は愛らしい。何とも不思議な鳥だ。 「お疲れ様です。山川商事との会食は早く終わったんですか。」  吉岡を見つけた新村は、近づいてきて心配そうに聞いた。 「そうだな。会食といっても用件が済めばそれでお開き。先方も忙しいだろうから。」  吉岡は新村に嘘をつくことに良心の呵責を感じながらも、曖昧に返答した。  二人は地上に出ると、海鮮料理が充実していそうな居酒屋の暖簾をくぐった。 「いらっしゃいませっ!」  はち切れそうな笑顔の女子大生っぽい店員が威勢よく迎え入れた。  吉岡が人差し指と中指を立てて人数を伝えると、その店員は空いているテーブルに二人を案内した。  胸に付けた手書きのネームプレートを見ると東南アジアから来た留学生のようだった。 「学生さん?日本語上手いね。」  新村はおしぼりで両手を拭きながら訊ねた。 「……少しです。」  その店員は少し照れたように頷いた。 「取り合えず、ビールでいいか?」  吉岡の問いかけに、新村はおしぼりで顔を拭きながら頷いた。 「生2つ。」  吉岡は店員にオーダーすると、おしぼりを手にした。 「はい、よろこんでっ。」  女子店員はハツラツとした声で答えると厨房に向かった。 「何を食べますか?」  新村は壁に貼られた手書きのメニューを眺めながら、吉岡に尋ねた。 「まずは、あじのなめろうかな。」  吉岡はメニューになめろうがあると、必ずと言っていいほどオーダーする。 「はい、部長の定番ですね。  それから、おっ、ブリしゃぶがありますよ。めずらしいな、どうですか?」  新村は、一応吉岡の同意を求めたが、明らかに食べる気満々の様子だ。 「うん、いいねぇ。」  吉岡も同調した。  厨房に消えていた店員がジョッキと通しを運んできた。 「お疲れさん。」  二人は軽く乾杯すると、キンキンに冷えた生ビールを勢いよく喉に流し込んだ。 「あー、この一杯のために生きているってとこですか。」  新村は通しの大根の煮物を口に運びながら、おどけたように陳腐なセリフを吐いた。 「そうだな。ここ最近は決算報告の関係で立て込んでいたしな。」  吉岡は相槌を打ちながらも、浮かない表情で料亭での鬼頭のことを思い出していた。  会長もいつまで続けるんだか……。 「大丈夫ですか?」  新村はジョッキを静かに置いて、吉岡を見た。 「ああ、すまん。ちょっと考え事をしていた。おっ、なめろうが来たぞ。」  吉岡は重い空気を振り払いながら、なめろうを一口、口に運んだ。味噌としその風味が口一杯に広がる。  新村は吉岡の様子を見て安心したのか、運ばれてきたブリを昆布だしの鍋にくぐらせた。 「ブリもしゃぶしゃぶで食べると、程よく脂がとれて旨味が引き立ちますね。」  新村はもっともらしく解説した。 「へえ。君がそんな繊細な味覚の持ち主とは知らなかったなぁ。」  吉岡は感心してみせた。 「人は見かけによりませんから。」  まんざらでもないような表情の新村は、もう一度、ブリを鍋にくぐらせながら、ジョッキの生ビールを空にした。 「営業利益も前年度比プラス12パーセント。順調ですよね。」  新村は吉岡に同意を求めながら生ビールのお替りを注文した。 「業界としては、まだまだ逆風が吹いているが、当社は何とか好調を維持出来たな。」  吉岡は新村の飲みっぷりを見つめながら同意した。ただ、鬼頭の顔が頭から離れなかった。
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