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事務室からトイレへ移動すると、
「お疲れさまです!」
と、はつらつとした女性刑事が挨拶した。同じ黒岩班の赤城刑事だ。鑑識と確認した状況を説明してくれた。
「被害者は一橋綾子、二十一歳。三日月美術大学の美術工芸学科の四年生で、このコンビニで去年からアルバイトをしているそうです。死因は背中から肺を刃物で一突きされ出血性のショック死と見られます。凶器はまだ見つかっていません」
「凶器はないか...…。防犯カメラの映像を確認したんだが、被害者と一緒にトイレにいた作業着の男はトイレを出たあと買い物をしている。凶器をもったまま買い物とは大胆だな」
黒岩警部はまだ腑に落ちないようだ。
緑川がふと足元を見るとまだ遺体がそこにあった。遺体はトイレの入り口側を向いて倒れている。中年女性の証言通りであれば、大便用の個室の壁とドアの角の方を向いて、ドアにもたれていたことになる。犯人がドアから出てきたとすると、被害者は背中を刺されたあと振り返って、ドアにもたれたまま絶命したということだろうか。それにしてもきれいな顔をしている。こんな美人に殺される理由なんてあったのだろうか。そういえば背中を刺されたのに髪にも血が飛んでいるな……。
「それから、中を見てもらえばわかるんですが、トイレの中に血が飛び散っています」
遺体の髪や衣服の上の方にも血痕が付いているのは、その飛び散った血液と同じ跡か。
黒岩警部は中にいた鑑識の人と入れ替わり、緑川とともに手洗い場の部屋へ入った。黒岩警部は大の個室に入る。
「確かに酷いな」
そうしている間に緑川は手洗い場のスペースを眺めた。
洗面台の上に丸めたガムテープが置かれている。そして洗面台の横に、ほうきとちり取りがある。事件のことを除けば、きれいなトイレという印象だ。小の個室のスライドドアを開けてみたが、中は特に変わった様子はない。
大の個室の方から黒岩警部の声がした。
「窓の鍵はもとから開いていたのか?」
「そうです。鑑識に確認しましたが、鍵が開いた状態で窓が閉まっていたそうです」
緑川は個室の中を覗いてみたが、まず飛び散った血に驚いた。壁や床、部屋中隈なく点々と血痕が付いている。鼻血を出したときのような嗅いだことのある臭いがしていたが、それが血液の臭いだと理解するのに少し時間がかかった。一体なぜこんなことになっているのだろう。
窓は入り口から見て奥の方、便器の上に付いており、高さ三、四十センチ程度の小さい窓だ。部屋中に血が飛んでいるといったものの窓ガラスには血が付いていない。遺体からは離れた位置にあるので、そこまでは届かなかったということだろうか。
「被害者は掃除をしていたのか? 床と被害者周辺の壁が濡れている。それから、小さいが青い液体が付いているな」
黒岩警部が見る先を緑川も見てみた。青色の液体。
「モップとバケツもありますし、被害者が掃除に使った洗剤でしょうか?」
「鑑識に調査を依頼しておけ」
「了解です」と答えてメモを書き留めた。ここで確認した内容は署に戻ったあと報告書にまとめなければいけない。犯人の目星はついているとはいえ、薄っぺらい報告書にならないよう、しっかりと記録しておかなければいけない。
「これだけ血が飛び散っていて、犯人の服には血は付かなかったんでしょうか?」
ふと気になって緑川は口にした。
「おかしな行動だが、自分の服を汚さないくらいの冷静さはあったんじゃないか」
防犯カメラの映像を思い出すと、作業着の男は普通の買い物客として店内を歩いて買い物をしていた。こんなことをしたあとに平然としていられるものだろうか。
「可愛そうね、被害者の女の子。美大生で夢もあったんじゃない」
個室から出ると、近くにいた赤木刑事に声を掛けられた。三十代中頃で刑事部に長くおりベテランともいえる赤木刑事が死体を見て悲しそうな顔をしているのは少し意外だった。いつものサバサバした性格のせいもあるが、もう死体は見慣れていて淡々と仕事をするのかと思っていた。
緑川は静かに頷いたあとに、
「そういえば、青山さんはまだですかね?」
と質問した。
「青山はもう到着して、コンビニの外を確認してるわよ」
「じゃあ、鑑識に伝えるついでに青山さんの様子見てきます」
緑川は玄関付近にいた鑑識に青い液体の件を伝え、店の外に出た。
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