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大広間のヴィーナス
きらびやかなドレスを身に纏い
大広間に颯爽と現れる
列席の紳士達の視線を釘付けにする
緩やかにカーブした豊かな髪
朝露の雫のような潤んだ瞳
両頬にさっと赤みが差し
弾力のある四肢はすらりと長く
口元に微笑を湛えている
彼女のお相手ができるほどの紳士はほんの一握り
彼はそれが自分ではないと分かっている
くたびれたブラックスーツに
踵のすり減った黒のストレートチップ
何より顔がくたびれている
彼は大広間のヴィーナスよりローストビーフに意識を向ける
彼女は得意の絶頂だった
誰もが私を見ている
誰もが私を見ていながら
私に近付いて来るだけの自信家はほんの一握り
その自信家達も私の前では下僕のよう
あの誰に対しても威厳を失わない彼らが
私をエスコートする栄誉を今夜は誰に与えましょうか
彼女は優雅に彼らを見回す
誰もが彼女に釘付けである
列席の淑女達も感嘆のため息を漏らしている
その裏にどす黒い嫉妬や悪意が隠されていることなど
彼女は百も承知である
それも含めて彼女は得意の絶頂にいた
彼は一人彼女に背を向け
ローストビーフに向かっていた
肉厚のローストビーフはナイフを入れると鮮やかな赤みを露わにする
これこそが大広間の華である
ヴィーナスを背に一人そう思おうと努めていた
彼の旺盛な食欲がこの争いを強力に後押しした
一体どんな神様の悪戯だろう
彼女は彼に気付いた
たった一人自分に背を向けているくたびれた男に
黒服だが給仕ではない
給仕ならもっとパリッとした着こなしで背筋がピンと伸びている
男は心持ち猫背に何かを貪っているらしい
私の晴れの舞台にゴミが落ちている
彼女は一気に不快になった
ああいう輩はどこにでもいる
見て見ぬふりをしていればよかった
だが何を思ったのか
彼女は彼に近付いた
彼女から男に近付く
そんなことはあり得ない
大広間がどよめく
あの男は誰だ あのくたびれた男は
彼はローストビーフを食べ始める
何だこれ 滅茶苦茶うまいではないか
彼のボキャブラリーではそれ以上の形容はできない
だが彼の感動を伝えるには彼自身の言葉が一番だ
続いて二切れ目
その時だった
背後に人の気配がした
それも尋常ではないほどの
彼女が自信家の紳士達を引き連れて立っていた
彼女の微笑は目もくらむようだった
彼は二切れ目のローストビーフをフォークに刺したまま
呆けたように彼女を見ていた
彼女は一目で彼を屈服させたことが分かった
彼女はそれで満足であった
そのまま無言でこの阿呆から遠ざかりたい気持ちだった
だが自分から近寄った手前何も話さないのもおかしい
おいしそうなローストビーフですね
と微笑んだ
阿呆に話し掛けるようだった
自信家の紳士達は彼女が見も知らぬ男に近寄ったので内心気が気でなかったが
彼女の意図を理解し鷹揚な笑顔を彼に向けた
呆けた彼はとっさに
あなたにもお持ちしますよ
と自分の皿をテーブルに置き
彼女のためにローストビーフを取りに行った
彼女は無論ローストビーフなど要らない
ましてこんなくたびれた男からの給仕などまっぴら御免だ
しかもこれでは男のローストビーフを自分が羨ましく思ったみたいではないか
あら そんなつもりで申し上げたのではないのですよ
だがそう言う前に男はローストビーフを取りに行ってしまっていた
彼女は呆れ顔でその場を離れればよかったのだろう
男を道化にしたままで
彼女が何も言わなくとも自信家の紳士達が男を物笑いにするだろう
しかし彼女はその場を離れることができなかった
大広間の視線が集まっている
彼女はこの晴れの舞台に染み一つつけたくない
少しでも高慢ちきな女だと思われたくない
彼女は微笑を湛えたまま男を待った
程なくして男が戻ってくる
手に持った皿にはこともあろうに大ぶりのローストビーフが二枚も乗っていた
彼女は微笑みながら
まあ わたくしこんなに食べられませんわ
とわざとおどけた調子で言った
大広間全体に笑い声が広がった
彼はこの大広間のきらびやかな中心に今自分がいることにようやく気付いた
自分が場違いなことが身に染みて分かった
そんなこと初めから分かっていたはずだった
それなのに舞い上がってヴィーナスにローストビーフを渡そうとするなんて
その時 神様の気まぐれだろうか
彼は急に彼女が陳腐に見えた
取り巻きに囲まれた大仰な作り物のように見えた
あまりのきらびやかさに彼の脳みそがショートしたのかもしれない
彼は失礼しましたと言うや否や
その肉厚の二枚をナイフで切りもせずその場で次々と食らった
野犬が紛れ込んだようだった
大広間全体に彼に対する嫌悪と軽蔑が広がった
だが彼女には
このくたびれた男がいにしえの屈強なヴァイキングのように見えた
彼女の前でこんな食べ方をする人はいない
しかも自分が食べられないと言った物をその場で次々と
彼女は決めた
今晩のエスコートは彼に頼もうと
(2023.4.19)
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