大切なもの

1/3
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ
 テレビの声が(うつ)ろに響いていた。誰も見ていない画面には、いま流行りの芸人が薄っぺらな笑いを振りまいている。  それは、午後8時過ぎのいつもの光景ではあったが。  1DKの小さな部屋。 ──このごろ日常会話も途絶えがちだな  つけっぱなしのテレビ。それに潤いを求めているなんて。僕は、そのことを少し気にしていた。  時々、耳障(みみざわ)りだと思わなくもない。けれどもスイッチを消したときの二人の静寂より、軽薄な音声が漂っているほうが、遥かにマシであった。それは哀しいことではあるのだが。  リビングで彼女は、書類の整理かなにかをしている。ときどき視線が、チラリとテレビに向けられていた。 ──何か面白い番組でも始まったのかな  キッチンに立ちながら僕は、その様子を少し気にしていた。洗い物が片付く。まだ泡が残るスポンジ。それをギュッと最後に絞った。 ──この倦怠ムード、変えなきゃ     手を拭きながら僕は何かを考えていた。  5〜6歩ほど向こう側にいる彼女。その後ろ姿にちょっと寄り添ってみようか。それはほんの思いつきのようなものだった。  ギュッ!  背後から彼女に抱きついた。勢い余って彼女がよろける。書類がバサリと散らばった。 「ちょっと、もぅ…… や、め、て」  言葉尻が、部屋の空気を切り裂いた。 ──そんな言い方、しなくても……  そう声に出かかったが、その言葉を飲み込む。口に出すと、また言い争いになるから。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!