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ふと目が覚めた。カーテンに閉められた窓からは光が入っておらず、部屋の中は暗い。体が何となく重だるい。しかし、今日はどうしても外すことができない用事があるので、早く準備をして向わなければならない。布団に手をつき、体を起こそうとした。なのに、体を起こすことは難しかった。まるで、何かに押さえつけられているかのような重さを感じる。仰向けのまま動くことができないが、どうしても僕は体を起こし、部屋から出て家の戸を開けて出なければならないという思いが僕を動かした。
僕は体全体に力を込めて左へ回り、ベッドの端から床へと転がり落ちた。何となく何かに引っ張られるような力を感じているが、それでも先程よりは体を動かすことができたので、手をつきながら体を引きずって玄関へと向かう。部屋のドアを開け、廊下へと出る。左手を見ると、暗い玄関があった。不気味な空気を感じながらもあの玄関を出なければならない。玄関への道がとても長く感じる。こんなにも家は大きかっただろうか。あと少し、あと少しでこの家から出ることができるのだ。一歩一歩と前に進みながら、彼女のことを考えていた。早く迎えに行かなければ……。玄関まで辿り着き、冷たいドアノブに手を触れた。その瞬間、目の前に水の塊が現れた。冷水に押されて、僕の体は部屋の奥に流されてしまう。どこからか現れた水は体を包み、動きを鈍らせた。
「もう、動けない」そう思い、諦めようとするが、彼女のことを思い出す。今日の約束を反故にする訳にはいかない。ずっと準備をしてきたのだ。そのことを思うと、また体の底から力が溢れて出てきた。僕は立ち上がり、もう一度玄関へと向かう。何度も不思議な力に引っ張られ邪魔をされたが、僕はドアノブに手をかけた。あと少しあと少しでやっとこの家から出ることができる。自分はドアを押し開けた。暗闇が玄関を満たした瞬間、僕はまた目を覚ました。
「彼はずっと同じことを繰り返しています」
そう目の前の女性が言った。大学生か、社会人になったばかりくらいの若い彼女は、おしゃれやトレンドからは離れているのか髪は染められず、少しくすんだ青色のセーターを着ている。化粧気も表情の変化もあまり無い青白い顔は更に陰鬱な気分させる力があるのでは無いだろうか。そんな彼女が私の家にいるのは単に私が依頼したからだった。
この家に引っ越してから、何度も起こる現象をどうにかしたかったからだ。それは、毎日同じ時間に人影が部屋を移動するのだ。寝室から玄関へとその影は向かい、消える。害を与えられたことはないが、気味が悪いことには変わりない。この部屋を紹介してくれた不動産屋に訴えたが、知らないフリをされた。恐らく、彼らはこの事象を知っていたのだろう、だからこそ家賃が割安だったのだと今になって分かった。
「もし引っ越すのあれば、次はもっと慎重にことを進めよう」そう反省しながらも、私は引っ越すことを選択肢から外していた。この家賃の安さはとても魅力的だからだ。何かが寝室から移動すること以外は何も問題はない家だった。立地の良さもトイレとバスルームが別なところも、セキュリティも宅配ボックスも全てが私の希望に沿っていた。引越し費用や高い家賃を払い続けることを考えると、この家を捨てることなど出来なかった。その為の苦労の残骸が、今も家に残っているお札やお守り、塩などだ。花瓶を飾った玄関には札が、廊下にはお清めの塩が器に入れられて等間隔に置かれている。有名な寺社のお守りも、友人に紹介してもらった霊能力者も何の解決にもならなかった。その霊能力者は聖水のようなものを家に撒き、何かを言っていたが、人影が消えることは無かった。その聖水が入った瓶は靴箱の上に飾られた。そんな時に出会ったのが、これといって特徴のない彼女を派遣した探偵事務所だった。
「お困り事何でもお任せください」と書かれた紙を張り出した清潔感のある事務所だった。派手な霊能力者がお祓いをした後も現象があったことに疲れていた私は、「何でも」という文面に少しの苛立ちを感じ、八つ当たりでその事務所の扉を開いたのだ。
「前の方は悪い霊が良くないことをしていると話していました。恨みで我を忘れているのだと」
「そんな風には見えません。ただ外に行きたがっているように思えます。自分の状況を分かっていないことを考えると、我は忘れているとは思います」
きつめに放って私の言葉を、あまり気にしていないのか、真っ直ぐに目を見ながら淡々と彼女は話した。
「その人が外に行けば、この現象はなくなりますか?」
「分かりません。彼が扉を開けてもまた、同じところに戻ってきています。彼自身も何故こんな風になっているのか分かっていないでしょう。彼と話をしてみないことにはわかりませんが、気付かせてあげることで解決すると思います。」
幽霊とどのように話すのだろうか。死んだ人間だ。話が通じるとは思えない。彼女がそんな特別なことができるようにも見えないので、私には不信感が募った。
「彼は今、周りが見えていません。ただどこかに向かおうとしているだけです。どこに行こうとしているのか調べてから話し合うことにします」
私の困惑を置いたまま、彼女は話を続けた。どう霊と話すのかも説明がない。彼女は結論が出たのか、この部屋に来た時に唯一持っていた黒い鞄を持って立ち上がった。
「どのように調べるのですか。それにアレとどう話し合うんです?」
何の説明もなく立ち去られては困る。そう思い、私は彼女に質問を投げかけた。
「所長にこの家で何があって、その人物がどう生きてきたのか調べてもらいます。話し合いは私が彼方に向かえば済むのでご心配なく。早ければ2、3日で解決すると思います」
「そんなすぐに出来るんですか」
2、3日でこの家と住民の歴史を調べることができるとは思えなかった。
「所長ならできます。人のプライバシーを侵害するのが趣味のような方なので」
そう彼女は言って、この家を出て行った。
瞼を開け、寝室の天井を見上げる。同じことを繰り返している。何度も何度も寝室から出て、玄関へと向かう。何度でも僕は外に行かなければ、彼女に会わなければならないのだ。僕はまた体を起こし、外へと向かった。何故か今回は重さが無い。体が嘘のように軽かった。窓からは陽の光が入り、机や本棚を、明るく照らしている。僕は物をあまり持たないので、片付いた部屋だった。僕は軽い足取りで、ドアを開いた。
「はじめまして」
知らない女性の声が聞こえた。ドアの前に、サックスブルーのセーターを来た女性が立っていた。化粧をしているわけでは無いが、清潔感がある大人しそうな人だった。自分の家に急に現れたにも関わらず、嫌悪感を全く抱かない。
「もう行こうとしなくて大丈夫ですよ」
彼女は微笑みながらそう言った。
「ぼくは彼女に会わなければならないんです」
どうしても……。今日は彼女が退院する日だ。付き合いはじめてすぐ、大病を患った彼女は僕のプロポーズを聞こうとしなかった。僕が話そうとすると急に話題を振る。「おそらく病気を持ったまま結婚することが嫌なのだろう」と彼女の家族から話された。成功率の低い手術が終わり、退院するその日を僕は待っていたのだ。運命的にその日付は僕と彼女が付き合いはじめた日だった。だからこそ準備をしてきたのだ、彼女に喜んでもらう特別な一日にするために。これからも彼女を支えて生きていたかった。
「彼女はあなたの想いを知っています。あなたの遺品を手紙をちゃんと受け取ったから」
遺品……手紙……。少しずつ記憶が流れ込んだ。ドアを開けた先に現れた黒い影の記憶を、大きな声が聞こえたときに感じた鋭い痛みを僕は思い出した。
「僕はあの日刺されました」
涙が頬を伝う。
「はい。そして病院へと運ばれました。彼女が待っていた病院に。そこで会うことは出来なかったけれど、彼女にはあなたの気持ちが伝わっています。彼女は今も生きています、彼女の夢を叶えようとしながら必死であなたの想いに応えようとしています」
「彼女は幸せにしていますか?」
目の前の女性は目を伏せて首を左右に振ったのを見て、息が詰まった。辛い病気が治った彼女は更に不幸が起きたのだろうか。
「どうして……」
「直接会って話してはいませんが、彼女が病気が治ったからといって、恋人が死んで幸せを感じられると思いますか?あなたはここにいるべきではありません。彼女を見守ってあげてください」
真摯に僕に向き合いながら、彼女は言った。彼女の目は涙で潤んでいる。必死に語りかけるような目から視線を外すと、通販のダンボールが積まれた廊下と女性物の色鮮やかなハイヒールやブーツがいくつも置かれた玄関が見えた。ステンドグラスのような模様をした一輪挿しが飾られていた。ここは僕の居場所では無いことが一目で分かった。
「ありがとう。迷惑をかけて悪かったと伝えてくれますか?」
「はい。でも私はあなたのせいでは無いと思います」
大人しそうな見た目にもかかわらず、はっきりとそう言った彼女は優しく微笑んで僕を外へと促した。
「いってらっしゃい」
澄んだ声を聞こえ、明るく温かい光が僕を包み込む。
「迷惑をかけた事を謝っていました。もう彼が現れることは無いと思います」
調査が終わったのか、宣言通り2日後に戻って来た彼女は家にあったお札やお守りを紙袋に入れて、私に家の外で待つように言った。暫くすると彼女は家から出てきて、依頼が完了したことを告げたのだ。
「大切な日に家から出た瞬間に刺されたようです。理由は人違いだったようで、彼も状況の理解が出来なかったのでしょう。ただ思い残し、執着だけが彼を動かしていたのだと思います」
もしその人が生きていれば、その日は本当に特別な日になっていたのだろうと、煩わしいと同時に恐怖を感じていた人影を思い出した。彼女に家の中に戻るように促され数十分振りに部屋に入ると、家の中は明るい光が入り、空気が以前よりも澄んでいるような気がした。前と同じセーターを着た彼女は手短に依頼料の支払い方法と次も現れた場合の対処について話し、家を出て行った。もうこの家には私しかいないのだ。今日から新しい生活が始まる。
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