正体

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正体

 ある日、蝶子は天根を自宅に招いた。今日は休日だったが、朝から雨が降っていた。天根は濡れたビニール傘を片手にやって来て、蝶子の顔を見るなり、「こんにちは」と元気よく挨拶してきた。  しかし、天根は蝶子のと目が合った瞬間、血の気が引いたような顔に変わった。 「――」  蝶子と天根はローテーブルを挟んで向かい合わせに座り、菊川は蝶子の隣に座った。  天根は身体を小さく丸めて正座し、口を開こうとしない。俯いているため、彼女がどんな顔をしているのか蝶子には分からない。  室内に、重苦しい空気が漂う。 「――天根ちゃん」  蝶子が呼び掛けると、天根の肩がビクッと震えた。 「何で菊川さんに来てもらったか、分かるよね?」  天根は尚も俯いたまま、黙り続ける。蝶子はその様子を見て、小さくため息を吐いた。 「この間、天根ちゃんから貰ったぬいぐるみ、覚えてるでしょ?あれ、中に遠隔監視のカメラが仕込まれてた。目の部分がカメラのレンズになってた」  蝶子の耳に、天根の息を呑む音が聞こえた。 「バッグに入ってた盗聴器も、天根ちゃんの仕業でしょ?」  天根はゆっくりと顔を上げる。顔を強張らせ、目を泳がせていた。  ――あの子、大丈夫なの?いっつも、君のこと訊かれるんだけど。君と付き合ってるのか?とか。さっきだって、君が一番感じるところはどこなのかって訊かれたし……。  あの日、天根が立ち去った後、藤間はそう話した。その時の彼の顔は、いつになく真剣だった。  ――今日、学校で文化祭があったんだ。それで、卒業生の天根さんが来てたんだ。蝶子さんのことを、根掘り葉掘り訊かれた。ちょっと、様子がおかしかったから、蝶子さんに何かするんじゃないかって。……心配で。  菊川と蓮水が鉢合わせたあの日、菊川は青ざめた顔でそう言った。天根が三年生の時、菊川が担任だったという。  今日も天根と話し合うと説明し、もしもの時のために付き添ってもらった。  ――手紙の差出人の名前、『天根愛』って書いてあるんだけど、知ってる人?  蓮水にそう問われた時、蝶子は咄嗟に「知らない」と答えた。蓮水は腑に落ちていないような表情をしていたが、「そうか」と言って追及はしなかった。  蝶子も薄々勘付いていた。天根が犯人なのではないのか。自宅で感じる視線の原因は、彼女から貰ったぬいぐるみなのではないのか――。そもそも自分の自宅と天根の実家が二駅以上も離れていることを、蝶子は塾にある個人情報が書かれた資料で知っていた。しかし、天根に幻想を抱いていた蝶子には、それを認めることができなかった。何かの間違いだと思って、自分の中の天使を守ろうとした。  ――天使なんて、人間の世界には存在しない。  蓮水の言葉で、ようやく蝶子は決心がついた。 「――蝶子先生のことが、好きなんです」  天根は消え入りそうな声で言った。その表情は、戸惑いや悲しみ、絶望が入り交じっているように見えた。 「――幻滅した?」  蝶子の問いに、天根はまた俯いて黙り込んでしまう。 「幻滅したんでしょ?私がこんな女だって知って……。そして腹が立った。私にも、菊川さんたちにも……。だから、菊川さんや藤間くんに嫌なことを訊いたり、蓮水先生に変な手紙を送ったりしたんじゃないの?」  天根が鼻を啜り、肩を震わせ始めた。 「私がこんな女だって知ったから、嫌がらせのつもりで盗聴器やカメラを仕掛けたりしたの?それとも――」 「先生のことが知りたかったんです」  天根はすすり泣きながら、大きくかぶりを振る。 「最初は、知りたかっただけなんです。どんなふうに生活してるのかとか、どんな人とお付き合いしてるのかとか……。バイト終わりの先生を尾行して、偶然を装って話しかけました。先生がトイレに行っている時に、バッグに盗聴器を仕掛けました。いけないことだって分かってました。でも、抑えられなくて……」  天根は(せき)を切ったように話し始める。そして、ボロボロと涙を流す。  あの盗聴器は音声を録音するタイプらしく、天根は蝶子の隙を見て、仕掛けたり、抜き取ったりを三回繰り返していた。  菊川との関係は、盗聴器に録音されていた音声から、蝶子が「菊川さん」「先生」と呼ぶこと、相手の男の声が元担任に似ていること、蝶子のマンションの前で菊川の車に彼女が乗り込む姿を見て推測したそうだ。天根は頻繁にマンションの前で、監視していたという。  藤間との関係は、監視カメラに彼の姿が映っていたことで知ったという。  蓮水との関係は、盗聴器に「蓮水先生」と呼ぶ蝶子の声が録音されていたことで知ったそうだ。しかし、天根は唯一蓮水だけ面識がなかったので、初めは誰か分からなかったという。蝶子の部屋の本棚に「蓮水鷹彦」という著者名の本があったこと、マンションの前で蓮水と待ち合わせをしている姿を見て、雑誌に載っている蓮水の顔写真とその男の顔が一致したことで、彼の正体が分かったそうだ。  蝶子は、天根の調査能力の高さに、思わず脱帽した。 「何で先に『好きだ』って言ってくれなかったの?こんなことしないで、普通に告白してくれれば――」 「違うんです。私、そんな純粋な人じゃないんです。ごめんなさい、ごめんなさい……」  天根の言葉を聞いて、蝶子はふと蓮水の言葉を思い出した。  ――手紙の文面から、この子は窃視症のきらいがあるね。君の性生活を覗き見て性的興奮を覚えてる。君が好きだと言っていた『ある女について』の主人公と似たような感じかな。  蓮水の考察が合っているのならば、今の天根の言葉にも合点がいく。つまり、一連のストーカー行為は、天根自身の性的倒錯によるものだったということだ。  初め蝶子は、蓮水に本名で手紙を送ったり、菊川と藤間に直接不審な質問をしたり、なぜ天根は自分が犯人であることをアピールするような真似をしたのか不思議に思っていた。嫌がらせのつもりなら、匿名を使うなり、もっとやりようがあるはずだ。しかし、今ようやく理由が分かった。天根は止めてほしかったのだ。暴走する倒錯と行動を誰かに止めてもらいたくて、蝶子に対してアピールをしていたのだ。  目の前で泣き続ける天根の姿を見つめながら、蝶子は「私はこの子のどこが好きだったんだろう?」と不思議に思い始めた。天使だと思い込んでいた彼女は、汚れてほしくないと思っていた少女は、ただの性的倒錯者だった。蝶子や菊川たちと、同じ穴の狢だった。  一気に気持ちが冷めてしまい、何もかもどうでも良くなった。  蝶子は「ふう」と息を吐いた。 「天根ちゃん、このこと、誰にも言わない。私と天根ちゃんと菊川さんの三人だけの秘密にしましょう」  蝶子の言葉に、天根は顔を上げた。顔は涙で濡れている。  隣で菊川が「えっ」と漏らした。 「その代わり、もう二度と私の前に現れないで」  蝶子はいたって冷静に、そして冷たい口調で言い放った。  天根は唇を噛みしめ、再び俯いた。 「――分かりました」
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