犬の腹を撫でる

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犬の腹を撫でる

 蝶子が菊川と知り合ったのは、その夜から半年が経った頃だった。  藤間とはその後も関係を続け、彼との行為はとても刺激的だった。しかし、複数人の女性と遊んでいる藤間とは、なかなか予定が合わなかった。いつしか蝶子は、もっと定期的に遊べるような男性を求め、出会い系サイトに登録していた。  なぜマッチングアプリではなく、古臭い出会い系サイトなどに頼ったかというと、後者のほうが遊び目的で登録している人が多いと思ったからだ。蝶子は、彼氏が欲しいわけではない。男体が欲しいだけだ。  大学に入るまで、登録してはいけないと何度も学校の集会で釘を刺されていた出会い系サイトに登録するという行為だけで、蝶子は胸が高鳴った。  若い女というだけで、メッセージは大量に届いた。中には、かなり変態度の高い文面もあった。  想像以上に大勢の男たちからアプローチを受けたので、どうやって選ぼうか迷った。    まずは年齢。なるべく歳の近い、二十代から三十代前半まで。  文章がしっかりした人。卑猥な文章を書く男は、事件に繋がるかもしれない。  あとは住所。できれば同じ県内に住んでいる人。    そうやって選び抜いた中で、目に留まったのが菊川だった。歳は一回りも離れていないし、住所も同じ県だし、メッセージも丁寧だがあまり堅苦しくない。  蝶子は菊川に返信した。  菊川と何回かやり取りして、住まいが蝶子のマンションから電車一本で行けるところにあること、高校で教師をしていることが分かった。そして、二人は連絡先を交換し、今週の土曜日の昼間に会うことを約束した。  約束の日、蝶子は最寄りの駅で菊川を待った。  事前にお互いの顔写真を送り合っており、菊川の顔は分かっている。いかにも教師という真面目そうな風貌で、度のきつい黒縁の眼鏡が特徴的だった。顔立ちは一見しただけでは地味な感じで、これといって特徴はないように思えた。  菊川は、待ち合わせの時間ぴったりにやって来た。  白のシャツに黒のチノパンといった無難な服装で、少々猫背気味だった。  ――蝶子さん、ですか?  声は思ったよりも低かった。  軽く挨拶を済ませて、二人は菊川の車に乗り込んだ。その間、菊川とは一切目が合わなかった。  ――どこ行きますか?  ――じゃあ、ホテル、で。  菊川には事前に、遊び目的だということは伝えていた。蝶子の返事に、菊川は一瞬黙り込んで、目を伏せたまま「ちょっと調べます」と言ってスマホをズボンのポケットから取り出す。しばらくスマホと睨み合ってから、カーナビを操作して車を走らせた。  移動中、車内で会話はほとんどなかった。「教師って本当ですか?」という蝶子の質問に、「本当ですよ」と淡白に返されただけだ。  気まずい空気が車内に流れる。  いたたまれない感じになり始めた頃、車は目的地に到着した。  先にシャワーを浴びて、蝶子はバスローブ姿でベッドに座って菊川を待った。  悪い人ではなさそうだが、面白味もなさそうだな、と蝶子は肩を落としていた。正直、付き合うわけではないので人柄など、どうだっていい。蝶子にとって気掛かりなのは、セックスのことだ。あの感じだと、会話と同じように淡白かもしれない。どうせ行為に及ぶのなら、刺激的なことをしてくれる人が良かった。  浴室から出てきた菊川を見て、蝶子は少し驚いた。眼鏡を外した菊川は、鼻筋が通っていて、目も大きく、そこそこ美形だった。コンタクトにすればいいのに、と思ったが口には出さなかった。  菊川にキスされた時、唇が分厚くて、柔らかいと感じた。  すると、菊川はいきなり蝶子の足の間に潜り込み、性器を舐め始めた。  そこから?と蝶子は驚いたが、すぐに菊川の舌で腰をくねらせた。  ――あっ、イく。  蝶子は菊川の舌だけで呆気なく果ててしまった。  蝶子の股から菊川は口を離し、口元をバスローブの袖で拭った。その時、菊川が嬉しそうな表情を浮かべているように見えた。そして、蝶子とキスを交わしながら、手を股に滑り込ませた。  菊川が顔を離すと、バスローブがはだけて彼の乳首が覗いているのに、蝶子は気づいた。そこに吸い寄せられるように、蝶子は手を滑り込ませた。突起を指で撫でると、菊川は「うっ」という声と共に、身体を震わせた。想像以上に素直な反応をするので、蝶子は面白くなって、軽くつまんだ。すると、「あっ」と艶のある声が響き、菊川の身体が大きく震えた。菊川の顔を見ると、彼は恥ずかしそうな、そして恍惚とした表情を浮かべていた。  この男、マゾなのでは?  蝶子の好奇心が疼いた。  今度は爪を立ててやった。流石に「痛い」と拒絶されるかと思ったが、菊川は気持ち良さそうな反応を見せる。  一気にこの男に対する興味が湧いた。  蝶子は菊川の肩を持って、ベッドに仰向けにさせて、自分が馬乗りになった。  こんな体勢、藤間相手ではあり得ない。  菊川の乳首を舌で転がす。ビクビクと痙攣する身体が面白くてしょうがない。反対側も指でいじってやる。舌だけでなく、歯を立てる。グッと力強く(つね)る。  菊川は、身体を震わせながら、女のように喘ぎ始めた。  ――先生。  特別理由もなくそう呼んだ。すると、菊川は顔を真っ赤にして、蝶子を見つめた。――その目は、羞恥心を訴えていた。  ――先生?  ――やだっ、やめて。  菊川は手で自身の顔を覆った。弱々しい声の中に、発した言葉とは真逆の意味が込められているように感じた。  ――先生、もしかして、生徒としてるところ、想像しちゃった?  ――ちが、う。……あっ、あの子たちと、そんな、こと……。  ――じゃあ、何で、さっきより大きくなってるの?  蝶子は、菊川が自分と同じように、背徳感で興奮する人間だと見抜いた。  ――教えて、先生。  事を終えて、蝶子は少し休もうと菊川に背を向けて横になった。  うつらうつらとしていると、菊川が背後から抱き着いてきた。  ――蝶子さん。蝶子さん。  甘えるような声。――気持ち良かった。興奮した。楽しかった。綺麗だった――。車内にいた時とは打って変わって、菊川はよく喋る。  ――また、会いたい。  蝶子は、幼稚園で飼われていた柴犬のことを思い出した。大人しくて、吠えもせずに四六時中座り込んでいるだけの犬だった。蝶子がいつも頭を撫でるので、いつの間にか尻尾を振って彼女の後をついてくるようになった。あの犬は、もうすでに亡くなってしまったのだろうか。  ――また遊びましょ。  菊川と知り合って、もう三年が経つ。  菊川は蝶子が会いたいと言えば、仕事でない限り、車を飛ばしてくる。逆に菊川側から誘ってきたら、蝶子が断れば大人しく従う。そして、彼女がしたいことに何でも応じてくれる。蝶子にとって、一番都合の良い男だった。  菊川と知り合ってから、蝶子は自身の中に加虐心がこれほど秘められていたのかと驚いた。それまでは自分をマゾだと思っていたが、菊川を前にすると、この男を痛めつけたくてしょうがなくなる。  自宅のマンションの前で車が停められ、蝶子は「ありがとう」と言って降りようとした。 「次、いつ会えるかな?」  菊川の言葉に、ドアを開けようとした手を止める。そして、蝶子は彼のほうを見た。ほんの三十分前まで恍惚とした表情を浮かべていた菊川の顔は、不安そうに眼を泳がせていた。事後はあんなに饒舌になるのに、それ以外だとほとんど口を開かないため、彼の性癖以外の人となりは未だに謎のままだ。しかし、そんなものは蝶子にとってどうでもいいことだ。初めは居心地が悪かった菊川との沈黙も、無駄なエネルギーを使わなくて済むので楽だと感じるようになっていた。 「また連絡するから」  そう言って、蝶子は唇に触れるだけのキスをした。これは二人の間で「待て」の合図だ。  菊川の表情が解れたように見えた。  蝶子は少しだけ笑みを浮かべると、さっさと車を降りた。
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