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煙草
天根と再会してから二月、二人は頻繁に一緒に食事をするようになった。主に天根の大学に関する相談や愚痴だ。基本的に天根が一方的に話し、それを蝶子はうんうんと聞くだけだ。それでも、蝶子にとって天根との時間は特別なものだった。彼女といると、不純な心が洗われていくような感覚になる。
とある休日に、初めて蝶子の自宅で会った。
玄関の扉を開けて出迎えた時、天根は大きな紙袋を後ろ手に隠して、何かニヤニヤと笑っていた。
「先生!お誕生日おめでとう!」
天根は紙袋からラッピングされた狸のぬいぐるみを取り出して、蝶子に差し出した。蝶子は今日が23回目の誕生日であることを、その時やっと思い出した。
「ありがとう。ふふっ、この狸、天根ちゃんにそっくり」
目がくりくりとした可愛らしいぬいぐるみを見ながら、蝶子は微笑む。
「ええー、嘘ぉ、私こんな顔してるの?」
わざとらしくむくれる天根を見て、本当に可愛らしい子だと思った。
ぬいぐるみは、ベッドと向かい合わせの位置にあるチェストの上に飾った。
その日は、二人でジュースとお菓子を囲んで、携帯型のゲーム機を使って通信でゲームをした。キャッキャッという笑い声が部屋中に響き渡った。
「天根ちゃん、そろそろ帰らないと親御さん心配するんじゃない?」
時刻は二十時を過ぎていた。
「先生、私もう子供じゃないんですよ。今日は一晩中、先生と一緒にいたいです」
すると、天根は突然蝶子に抱き着いた。天根の膨らんだ胸が、蝶子の二の腕に押し付けられる。その瞬間、蝶子はぞわっと悪寒が走り、身体を少し震わせた。
「……ご、ごめんね。実はこの後、予定があって――」
「えっ、もしかして、デートですか?」
興味津々の様子の天根に対して、「そんなんじゃないよ」と平静を装った。しかし、蝶子はそれ以降、天根の顔をまともに見ることができなくなった。
バスタブの中で、お湯が波打つ。蝶子が身体を震わせるたびに、湯舟が揺れた。乳房を包んでいる手がゆっくりと動き、突起をねっとりとこねくり回す。首筋に当たる口髭がチクチクと痛い。
「気持ちいい?」
鼓膜に絡みつくような低く艶のある声が問いかける。
蝶子は自身の胸を持ち上げている皮膚が分厚く骨ばった手を見ながら、こくこくと頷いた。
「こっち向いて」
胸元にあった手の片方が蝶子の顔を後ろに向かせる。唇を啄まれた時、喫煙者特有の臭いに顔をしかめそうになる。しかし、蝶子はこの臭いがそんなに嫌いではなかった。実家の父親も煙草をよく吸っていた。
キスを交わしながら、男の手はいつの間にか足の間に下りていた。蝶子は身をよじらせたせいで身体が湯舟に沈みそうになるが、それを蓮水鷹彦が支えた。
蓮水は、それなりに名の知れた官能小説家だ。二人が出会ったのは、一年ほど前のことだ。
蓮水が行きつけの喫茶店で次回作の構想を練っている時に、偶然同じ店にやってきた蝶子が声を掛けた。元々蝶子は蓮水作品の読者で、雑誌のインタビュー記事で顔写真が載っていたことから、彼の顔を知っていた。
特徴的な癖毛に、薄い唇と口髭、もしかすると本人なのではないかと思い、蝶子は思い切って声を掛けたのだ。元来、人見知りをする蝶子が初対面の人間に自ら声を掛けるなど珍しいことだ。そんなことができたのは、蓮水の物腰柔らかそうな雰囲気が理由だろう。
蓮水は驚いた様子で蝶子を見てから、薄く笑みを浮かべた。
蓮水は物珍しそうに蝶子を見つめ、相席を勧めた。蝶子は快く受け入れた。
――若いお嬢さんの読者なんて珍しいから、びっくりしちゃったよ。
――そうなんですか?……私、先生の『ある女について』がすごく好きなんです。
「ある女について」は、蓮水の四作目の小説だ。売れない小説家が喫茶店のウェイトレスに一目掘れし、そのウェイトレスに対してストーキング行為を行って、彼女の生活を小説として書くという内容だ。聖女のような顔をして、裏では幾人ものの男を手玉に取る彼女に、主人公に夢中になっていく様子が特徴的だ。
――官能小説を読む女なんて、はしたないって思いますか?
――そんなことないよ。今は女性向けのそういった本も多いからね。
蓮水の作品は、とても女性向けとは言えない。基本的に性に奔放な美女が現れ、冴えない男が振り回されるといった物語が多い。そういった蓮水が書く女性に対して、蝶子は共感を覚えることが多々あった。
蝶子はそのことと、自分の性的指向について蓮水に話した。
――へえ、興味深いね。
蓮水はコーヒーを飲みながら、舐め回すように蝶子を見る。その視線が蝶子にはむず痒く感じた。
――引いたりしませんか?
――引くわけないだろう。私の作品、いろいろ読んでくれてるんじゃないのか?
――でも、好きでもない人とじゃないと、できないなんて……。
蝶子は恥ずかしそうに俯いてみせたが、実際は誘いのつもりだった。
――実はね、次回作をどうしようか困っていたんだ。
蓮水はそう言いながら、テーブルの上に置かれている蝶子の手に自身の手を添えた。
――もう少し、君について教えてくれないか?
蝶子自身も、自分の父親とそう歳の変わらない男とそういった関係になるとは夢にも思っていなかった。しかし、蓮水の愛撫する手つきと舌使いは、彼の経験の豊富さを物語っていた。そして何よりも、声が魅力的だった。腹の底に響くような甘い声、耳元で囁かれるとそれだけで身体が蕩けてしまいそうになる。
しかし、蓮水は勃起不全だった。そのため、蝶子は一度も彼に挿入されたことがない。いつも愛撫だけで蝶子を果てさせる。初めての時、「笑っちゃうだろう?こんな職業なのに、男としては役立たずなんて」と自虐的に言っていた。蝶子は「そんなことないですよ」と慰めた。
正直、蓮水との行為は少し物足りなさを感じてしまうが、ただ身を委ねていれば必ず快楽へと導いてくれる。穏やかな蓮水の人柄も相まって、彼との行為は蝶子の心を落ち着かせた。
気づくと、蝶子は蓮水の家の寝室で眠っていた。蓮水と会うのはいつも彼の自宅で、行為の後そのまま泊まることもよくある。
キーボードを叩く音が聞こえ、蝶子は上体を起こして辺りを見渡した。ベッドから離れたところに、蓮水の仕事用のデスクがあり、彼はそこでノートパソコンを開いていた。
「先生?」
蝶子が呼ぶと、蓮水が振り返った。珍しく銀縁の眼鏡をかけた蓮水は、「起こしちゃった?」と言って眼鏡を外しながらパソコンを閉じて、蝶子の元に歩み寄る。
「お仕事ですか?」
「気になる?」
ベッドのふちに腰かけ、蝶子の頬を撫でた。蝶子は興味津々な様子で、目を輝かせながら頷く。
「新作。まだ内容は教えられないけどね」
蓮水はサイドテーブルに置いていた煙草とジッポーを取って、火をつけた。
「タイトルだけでもダメですか?」
「んー、……君の名前、一文字入ってる」
「……絶対『蝶』でしょ」
「ははっ、分かった?」
蝶子の名前は、「蝶のように自由に羽ばたいてほしい」という願いを込めて母親が付けた。その字面と響きから、物凄く美人なお嬢様を想像されてしまう。しかし、蝶子はその名前にしては地味で平凡な女性だった。それが少しコンプレックスだった。
「あの、小説に出てくるヒロイン、全員先生の元カノがモチーフって本当ですか?」
それは、蓮水の読者の間でたびたび出てくる噂だ。
蓮水は煙草を吹かしながら、「うーん」と唸る。数秒、視線を落として何かを考え始めた。
「内緒」
「えー」
蝶子は口をへの字に曲げて、煙草を持つ蓮水の手元を見つめた。ヘビースモーカーの父親のことを脳裏に浮かべる。
「煙草って、そんなに美味しいんですか?」
「まあね。でも、やめときなよ。身体に悪いから」
「自分は吸っといて、人にはそんなこと言うんですか?」
蝶子はくすくすと笑う。
「身体に悪いって分かっておきながら、吸わずにはいられないくらい病みつきになるからね。一度味を覚えたら、なかなか止められなくなる」
蓮水はそう言って、灰皿に煙草を押し付ける。蝶子はその手元を興味深そうにジッと見つめ、蓮水はすぐにその視線に気づいた。
「――そんな物欲しそうな顔しちゃダメだよ」
蝶子を抱き寄せ、優しく口付けた。唇を離すと、蝶子は蕩けた目で蓮水を見上げた。
「――先生、もっとして」
「……いいよ、おいで」
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