視線

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視線

 蝶子はデパートのコスメショップにいた。  来月、天根の誕生日であることを昨晩思い出し、自分の誕生日のお返しにプレゼントを買おうと考えた。  蝶子はフルーツの香りのボディスクラブとボディクリームがセットになったギフトを手に取り、レジまで持って行った。  店員に商品を渡して、トートバッグから財布を取り出そうとした。しかし、ポーチやらカードケースやらの下敷きになっているらしく、なかなか財布を取り出せない。蝶子は少し焦りながら、強引に財布を引っ張り出した。すると、カランという軽い音が床で鳴った。 「お客様、大丈夫ですか?」  何かを落としたらしく、蝶子は慌てて床に視線を落とした。すると、自分の足元に見覚えのない黒いボールペンが転がっていた。蝶子はそれを拾い上げて凝視したが、こんな物を持っていただろうかと疑問に思った。  ひとまず会計を済ませて、店外に出た。デパート内にあるベンチに座り、先ほどのボールペンを調べた。  もう一度よく見るが、やはり見覚えがない。このボールペンが紛れ込んでいたトートバッグは、アルバイト先にも持っていくほど蝶子が気に入って使っているバッグだった。どこかで誤って紛れ込んだ可能性を考えたが、バッグの口にはファスナーが付いており、几帳面な蝶子は常にファスナーを閉めていた。誤ってボールペンが紛れ込んでしまうことなどあり得るのだろうか。  蝶子は何となく芯を出そうと、ノックボタンを押してみた。しかし、芯が出てこない。不審に思い、グリップの部分をひねって、ボールペンを分解してみた。すると、中からUSB端子のようなものが出てきた。 「何……これ……」 「それ、盗聴器じゃない?」  蓮水は蝶子に腕枕をしながら、そう言った。 「なんかボールペン型の盗聴器があるらしいよ。ネットで簡単に買えるみたいだし」 「盗聴器……」  蝶子も何となくそんな気がしていたが、改めてそう言われると急に気持ち悪くなってきた。このボールペンが入っていたバッグは、ホテルにも持って行っていた。 「警察に相談したら?」 「すぐに捨てちゃいましたよ」 「……他に変わったこととかない?」 「うーん、言われてみると、なんか変な視線を感じるような……」  ここ最近、蝶子は誰かに見られているような気がして仕方ない。外出中も、誰かに後をつけられているような気がする。自宅にいる時もその視線を感じ、最近は自宅でのセックスを避けるようになっていた。 「ストーカーかな?心当たりは?」  そう言われて、「あるような無いような」というふうに、蝶子は小首を傾げた。 「……変に不安にさせたくなかったから言わなかったけど、最近ファンレターに交じって変な手紙が届くんだよね」 「手紙?」 「うん、君について、いろいろと……。君がどんな女性なのか尋ねるような内容だったり、君といついつに会っていたとかの尾行していたような内容だったり……。気持ち悪いから全部処分したけど」 「え、なにそれ……」  蝶子の背筋が凍る。そもそも自分と蓮水の関係は、誰にも口外していないはずだった。手紙の送り主は、蝶子のことをどれだけ調べているのだろうか。 「今日、泊まっていく?」 「いや、大丈夫です。今日は帰ります」 「そっか。じゃあ、送っていくよ。――何かあったら、いつでも私を頼っていいからね」 「……はい、ありがとうございます」  蓮水に車で自宅まで送られ、「心配だから」と彼は言って玄関先まで付き添った。  階段を上って部屋の前までたどり着いた時、蝶子は「あっ」と声を上げた。  そこには、――菊川の姿があった。  菊川は蝶子に気づくと口元が一瞬緩んだが、蓮水を見て顔を強張らせる。  今まで男性同士が鉢合わせたことなど一度もなかったので、蝶子も困惑してしまう。  菊川は無言のままギロッと蓮水を睨みつけ、それに対して蓮水は薄く笑みを浮かべた。 「じゃあ、またね」  蓮水は挑発するかのように蝶子の頬に口付けると、その場を去った。余裕のありそうな大人の蓮水が、まさかそんなことをするとは思っていなかったので、蝶子は思わず身体が硬直する。  菊川は唇を噛みしめ、明らかな苛立ちを露わにした表情で、蓮水の背中を睨みつけている。今にも蓮水に飛び掛かりそうな犬のようだ。  しばしの沈黙が流れる。 「蝶子さん」  菊川は苦しそうに、蝶子の名を呼ぶ。 「何で、いるの?」  蝶子は怪訝な顔で菊川を見る。律儀な菊川がアポなしで自宅までやって来たことは、今まで一度もなかった。 「……心配で」  菊川はそう言って顔を伏せる。 「――中、入ろう」  蝶子は菊川の手を引いた。彼の手は冷たかった。    部屋に入ると、菊川は襲い掛かるように背後から蝶子を力強く抱きしめた。 「蝶子さんっ、蝶子さんっ、……会いたかった」  切羽詰まったように蝶子の名前を繰り返し呼びながら、犬のように匂いを嗅ぐ。もつれ込むように、ベッドに倒れ込み、菊川は蝶子のスカートを捲り上げて下着を脱がせた。 「ここ、あいつに触られたの?」  蝶子の性器は、まだ濡れていて柔らかく、男を求めていた。蓮水との行為では挿入ができないので、やはり物足りなさを感じていたのだ。  蝶子は静かに頷いた。 「僕が綺麗にしてあげる」  そう言った菊川の目には、劣情と妬みが宿っていた。菊川は独占欲が強く、以前藤間が蝶子の胸元に残したキスマークを見た時も同じような目をした。  菊川は蓮水の手垢を舐め取るように、舌でそこを愛撫し始めた。蝶子は思わず腰を浮かせる。蝶子は彼の口淫が好きだった。いつも舌だけで、蝶子が先に絶頂を迎えさせられてしまう。今日もそうだ。蝶子が果てると、菊川の顔が解れた。 「私もしてあげる」  今度は菊川が仰向けになり、蝶子は彼のベルトを外してスラックスと下着を下ろした。もうすでに勃起している菊川のモノを見て、「若いな」と思いながら、それを口に含んだ。蝶子がしゃぶっている間、菊川は彼女の髪を手で梳いていた。  蝶子が菊川の上に跨って彼を受け入れると、彼女は待ち望んでいた快感に身体を仰け反らせる。 「――っ、ちょうこ、さん、……きもち、いいですか?」 「うん、――っ、気持ちいいよ。先生は?」 「……ぁ、きもち、いいです」  その時、蝶子は蓮水のことも、菊川のこと(行為中だけ)も「先生」と呼ぶことを思い出した。  別れ際、蓮水が挑発的に口付けたのは、嫉妬だったのではないかと蝶子は考えた。自分よりも一回り以上も若い菊川を見て、蝶子の欲望を満たすことができる身体を持った菊川を見て、蓮水は蓮水で嫉妬心が湧いたのではないか。  そして、――やはりどこかから視線を感じる。  蝶子は菊川のことを疑っていた。分かりやすく蝶子に対して独占欲をむき出しにする彼なら、やり兼ねないと思った。  しかし、よくよく考えると、怪しいのは菊川だけではない。先ほど、蝶子は蓮水から感じる父性のせいで、つい彼に相談してしまったが、今思うと蓮水が犯人である可能性も十分にある。  ――私、先生の『ある女について』がすごく好きなんです。  蓮水は、主人公がストーカー行為を働く作品を書いていた。ああいった発想は、作家の中にそういった発想や性質がないと書けないのではないのか。蓮水自身が、あの小説を模倣している可能性はないだろうか。送られてきた不審な手紙というのも、誤魔化すための嘘かもしれない。  そして、藤間が犯人でも不思議ではないとも思う。独占欲などとは無縁だろうが、サディストな彼なら、嫌がらせのつもりでそういったことをする可能性はある。  あの盗聴器の持ち主は、菊川か、蓮水か、藤間か、それとも――。
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