天使に恋する蝶

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天使に恋する蝶

 蝶子は一度だけ女性と交際したことがあった。  藤間との初体験から二か月後の出来事だ。その女性と知り合ったのは、レズビアン専用のマッチングアプリだった。  彼女は蝶子より四つ年上のOLだった。特別美人というわけではなく素朴な女性だが、穏やかで物腰が柔らかな人だった。蝶子は本当に彼女のことを愛していた。蝶子は真面目に交際しようと思い、彼女との交際期間中は藤間の誘いを断っていた。  しかし、彼女とは三か月交際して破局した。原因は、セックスだった。キスとハグは我慢できたのだが、やはり性行為に及ぼうとすると、蝶子は吐きそうになったのだ。何とも思っていない女性なら、裸を見ても何とも思わない。それなのに、愛する彼女の裸体を見ると寒気がした。彼女が自分と同じ女だという事実が受け入れられなかった。  蝶子は、一度セックスをしてしまえば抵抗はなくなると考えていた。藤間とのセックスも初めは怖かったが、二回目以降は恐怖心もなくなった。しかし、彼女とのセックスは耐えられなかった。  もし、蝶子が単純に性的なことに嫌悪感があるというのなら、彼女にも素直に打ち明けられたはずだ。しかし、蝶子は性欲が強い。彼女との交際中も、自慰行為に(ふけ)っていた。その時、思い浮かべるのは彼女ではなく、藤間の姿だった。彼に愛撫されているところを想像していた。そのたびに、蝶子は罪悪感を抱いた。  そして、彼女に対する罪悪感に耐えられなくなり、蝶子のほうから別れを切り出した。彼女は「何となくそんな気がしてた」と言って、蝶子の元から去っていった。  彼女と破局したその夜、蝶子は藤間を激しく求めた。――藤間でなくとも、男なら誰でも良かった。  それから、蝶子は二度と恋人を作らないと誓った。  そして、蝶子の性欲は歯止めが利かなくなり、藤間だけでは満足できなくなった。菊川、蓮水と欲望を満たしてくれる男を次々と探した。今、継続して関係を持っている男性は三人だが、一夜だけの関係やすでに関係が切れた男性も含めると十人にも上る。  ――君は天使が好きなんだね。  その出来事を話した時、蓮水が言った言葉だ。  ――天使がセックスしているところなんて、想像したくないだろう?天の御使いが、欲望に溺れているなんて幻滅するじゃないか。君は好きな女性を、天使だと思い込んでるんだろうね。  天根が入塾したのは、蝶子が失恋した直後だった。天根愛――驚くほど可愛らしい名前だと思った。しかし、蝶子と違って、天根はその名前にふさわしい容姿と愛嬌を持ち合わせていた。初めの頃は、蝶子にとって天根は生徒の一人に過ぎなかった。  ――蝶子先生の字、とっても綺麗ですね。  蝶子がバインダーに挟んだルーズリーフに英語と日本語を書いて、文法の説明をしている時に、天根はそう言った。  ――綺麗な字ね。  蝶子はその時、初恋だった担任教師のことを思い出した。まさかこの歳になって、こんな些細なことで恋心を抱くとは思っていなかった。しかも、まだ高校一年生の少女相手に――。  天根は週に二回、数学と英語を学びに塾へ通っていた。個別指導塾なので、一人の講師が四人の生徒に対して個別に勉強を教える。蝶子は天根がやって来る曜日に、シフトを合わせた。蝶子は天根の担当になることが多く、蝶子はその日を楽しみにするようになっていた。  ――先生。あのね、私、女の子が好きなの。  ある日の授業前、天根は「誰にも言わないで」と前置きしてから、蝶子にそう耳打ちした。蝶子はその言葉を聞いて、胸の中がぞわりと騒いだ。  ――こんなの、変、ですよね。私、頑張って男の子を好きなろうとしてるんです。でも、どうしてもそれができなくて……。どうやったら、男の子を好きになれますか?  天根は本当に悩んでいる様子だった。おそらく、家族や友人には言いづらいので、蝶子に相談したのだろう。  そんなことを言われても、蝶子も男性に恋愛感情を抱けない。蝶子は返答に困った。  ――別に、変だとは思わないよ。無理に男の子を好きになろうとしなくていいんじゃないかな?  気休め程度の蝶子の言葉を聞いて、天根は少し肩の荷が下りた様子だった。  ――そう、ですね。……ありがとうございます。  この時、蝶子は一瞬だけ淡い期待を抱いた。しかし、すぐにもう自分は恋愛をしてはいけないと思い直した。たとえ天根が高校を卒業して恋人同士になれたとしても、彼女とはプラトニックな関係しか結べない。そして、その裏で男たちと不健全な関係を続けるだろう。そんなことになれば、きっと天根を傷つけてしまう。  その思いは、天根と再会した今も変わらない。  バイト帰り、駅から出てきた蝶子の目に飛び込んできたのは、――天根と藤間の姿だった。  二人は何かを話しているようだった。藤間は背を向けていて顔が見えないが、その奥に見える天根の表情や仕草は親しげに見えた。  蝶子の背筋が凍った。  嫌だ。そんな男と関わらないで。あなたが汚れてしまう。 「天根ちゃん!」  蝶子は思わず叫んだ。  二人は蝶子のほうを向いた。藤間は蝶子の顔を見て、ばつが悪そうに眉間に皺を寄せる。 「蝶子先生!こんばんは」  天根は何でもない様子で、蝶子に笑顔を向ける。 「――ふ、二人は、知り合い?」  蝶子はかろうじて言葉を紡ぐことができた。 「俺、教授の講義の手伝いしてるから。天根さんはその講義を受講しているんだよ」  藤間はぶっきらぼうに説明する。 「先生、今帰りですか?」  いつものように無邪気な天根に、蝶子は苛立った。 「……天根ちゃん、もう遅いから帰りなさい」  蝶子は怒りを抑えるので必死だった。天根は不思議そうに小首を傾げ、藤間は「倉本さんの言う通りだよ」と言った。 「えっ、あ……、分かりました。おやすみなさい」  天根はそう言って会釈すると、その場を後にした。  残された二人の間に、しばしの沈黙が流れる。蝶子はまだ頭に血が上っており、藤間の顔を見ることができない。 「何怒ってるの?彼女と、知り合いなの?」 「……あの子、私のバイト先の生徒だったの」 「ああ、塾の?……別に、手なんか出してないよ」  蝶子は藤間を睨みつける。  蝶子も分かっている。天根は同性愛者だ。しかし、そういう問題ではない。純粋な天根と、脳みそを下半身に浸食されているような男である藤間が接触しているというだけで虫唾が走ったのだ。 「もしかして、あの子が好きなの?確かに純朴そうだもんな」  藤間は不敵な笑みを浮かべる。そして、おもむろに蝶子の肩を抱いた。 「ちょっと、やめてよ、こんなとこで……」  蝶子は藤間を押し退けようとする。 「いいじゃん、別に。俺たち、そういう関係なんだから……。今から君んちに行こうと思ってたんだ」 「今日はそんな気分じゃないの」 「嘘つけ。俺のこと欲しいくせに」  藤間はそう言って、蝶子の尻を撫でた。蝶子は咄嗟に彼の手を掴んだ。 「――やめてって言ってるでしょ!」  少し語気を強めて蝶子が言い放つと、藤間は少し落ち込んだ様子で手を放した。その時、蝶子はようやく冷静になり、咄嗟に「ごめん」と言った。 「ほんとに、今日はそういう気分じゃないの。……今度、ちゃんと埋め合わせするから」  蝶子の言葉を聞いて、藤間は渋々「分かった」と言った。  藤間は、こんなふうに拒絶されるとあからさまに落ち込む。基本的に気分屋なのに、どこか繊細な男だ。こちらから連絡してもなかなか返事をしないくせに、ふらっと現れたかと思うとこちらの事情などお構いなしに「あれがしたい」「これがしたい」とワガママを言う。それを断ると、分かりやすく肩を落とす。菊川と違って、蝶子に対して特別執着しているわけではないが、いつも何かを渇望しているようだった。いつもどこか満たされていないような顔をする。もう長い付き合いになるというのに、蝶子は藤間のことが分かるようで分からなかった。  蝶子は、そんな彼を「猫みたいなものだ」と思って、特別藤間の性格について気にすることはなかった。何となく、藤間に深入りするのは良くないと蝶子は感じていた。
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