嫉妬に駆られる男

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嫉妬に駆られる男

 蝶子は快楽によって身をよじらせながら、藤間のあどけない少年のような顔を見つめる。基本的に藤間は後背位(バック)を好むので、彼との正常位は久しぶりだった。「この男、顔だけは本当に可愛いな」と、蝶子は脳内だけやけに冷静だ。藤間の幼さの残る顔を見ながら行為をしていると、悪いことをしているような気分になる。 「――今日はやけに興奮してるね」  藤間は腰を打ち付けながら、くすくすと笑う。  藤間の言う通り、蝶子はいつもより興奮して身体が敏感になっていた。 「そういう自分だって……」と、蝶子は反論しようとする。 「俺はちょっと、恥ずかしいかも……」  藤間は蝶子の背後に向かって、チラッと視線を向ける。  蝶子のから伸びた手が、彼女の乳房を包み込み、指で突起を弾いた。蝶子は思わず吐息を漏らしながら、身体をしならせる。 「――気持ちいいんだね。可愛いよ、蝶子」  蝶子の身体を背後から支えているが、耳元でそう囁いた。  つい先日、蓮水に突然「この間の眼鏡くんと三人でヤりたい」と言われた。  蝶子は「眼鏡くん」というのは菊川のことだとすぐに分かったが、流石にその誘いには驚いた。  しかし、よく考えれば蓮水の作品には必ずと言っても良いほど、複数人での性行為もしくは寝取られの描写がある。一部の読者の間で、蓮水は三者性愛(トロイリズム)寝取らせ性愛(カンダウリズム)ではないかという説が浮上していた。  やはり作者の性癖が作品に反映されるのだな、と蝶子は思った。  しかし、蝶子は一度その誘いを断った。3Pが嫌だったのではなく、独占欲の強い菊川が本当に嫌がるのではないかと思ったからだ。  すると、蓮水は意外にも食い下がって来たので、どうしようか蝶子は頭を抱えた。その時、「今度埋め合わせする」と約束した藤間の顔が脳裏に浮かんだ。軟派な藤間なら、もしかすると承諾してくれるのではないかと思い、ダメ元で誘ってみた。藤間はあっさり「面白そう」と誘いに乗った。 「別の人だけど、三人でできる」と蝶子が告げると、蓮水は少し不服そうだったが、納得してくれた。  当日、蝶子と藤間の二人で蓮水の自宅に赴いた。ちなみに、藤間は蓮水鷹彦という作家のことを知らないそうだ。  藤間と対面した時、蓮水は彼のことを品定めするような目で見ていた。  ――君は、彼女のことをどう思ってるの?  軽く挨拶を済ませると、蓮水はいきなりそんなことを尋ねた。  ――エロい女。  藤間はあっけらかんと即答した。蝶子はその返答に対し、「その程度だろうな」と心の中で思った。蓮水は鼻で笑った。  三人での行為は、基本的に藤間と蝶子が交わり、蓮水がたまに愛撫するといった感じだ。しかし、蓮水はほとんど見ているだけで、服も脱いでいない。それでも、蓮水の視線がむず痒く、あの声で囁かれるだけで蝶子の身体は昂った。そして、いつもより愛撫する手や舌が多いというのは、なかなか貴重な体験だと感じた。 「いっ、イく――」  蝶子が絶頂に達しそうになり、身体を仰け反らせながら蓮水のシャツを掴むと、蓮水が突然彼女の顎を掴んで唇を貪りだした。蝶子の声が蓮水の中に消えていく。  藤間も一足遅れて、果てた。  藤間はシャワーを浴びると、「結構楽しかったよ」と満足そうに笑みを浮かべて、先に一人で帰っていった。  蝶子は結局二人によって四回も絶頂を迎えさせられたため、疲れ果ててしまい、蓮水の膝の上に頭を乗せて横になったまま動けなくなった。蓮水はそんな蝶子を見下ろしながら、彼女の髪を撫でていた。 「幻滅した?」 「――何がですか?」 「私に、こういう性癖があること」  蓮水の言葉に、蝶子は「ああ、なんだ」と拍子抜けする。 「別に、何かそういう癖あるだろうなとは思ってたんで……」 「ははっ、そうか。確かに、君は私の作品の読者だったね」  蓮水はサイドテーブルに手を伸ばして煙草とジッポーを取り、身体を傾けながらサイドテーブルに置いている灰皿の上で火をつけた。 「つまり、君は私にというわけか」 「どういうことですか?」 「人に対して期待しすぎると、その人の意外な一面や汚いところを見た時、幻滅してしまうんだ。私なんて、この癖のせいで何人の女性にフラれたことか……」 「あははっ、そりゃ彼氏だったら引いちゃいますよ」 「ああ、そうだ。恋愛感情は特にね。相手を大層な人間だと思い込みやすい。……君なんて、まさにそうじゃないか?」  蓮水の言葉を聞いて、蝶子は黙り込んだ。期待しすぎている――その言葉は、蝶子の胸に刺さった。 「あんまり人に期待するのは止めたほうがいいよ。所詮、人間なんてエゴの塊で、煩悩まみれで醜いもんさ。どこかで割り切らないと、君の心が持たないよ。天使なんて、人間の世界には存在しない」  蓮水の言葉を聞いて、蝶子の脳内に天根の顔が浮かんだ。 「……先生は、何で菊川さ――、この間の人にこだわったんですか?」 「うん?」 「だって、さっきの藤間くんなら大丈夫って言ったら、ちょっと不服そうにしたから」 「ふふっ、じゃあ、何で君は藤間くんを身代わりにしてまで、眼鏡くんを差し出すのを嫌がったの?」 「……彼、私のこと好きなんですって」  蓮水は少し黙り込んでから、「ふうん」と言って煙草を吹かした。一瞬だけ、空気がピンと張りつめた。 「だから、私と蓮水先生の遊びに、彼を道具として利用するのは可哀想だなと思って……。彼、私と二人きりで会えるのを楽しみにしてるみたいだし……。藤間くんはただの女好きだから、そんなの気にしないだろうし」 「……へえ、君は随分彼のことを可愛がってるんだね」 「そんなんじゃないですよ」 「彼が君のことを愛してるのは分かってたよ」 「えっ?」  蝶子は蓮水の顔を見上げた。蓮水は薄く笑っていた。 「……。彼にこだわった理由は。彼の私に対する嫉妬をむき出しにしたような目、あの目をもっと見たかった。私の手で()がる君を見せて、屈辱に顔を歪ませたかった。そうしたらきっと、――私もと思う。君のナカに挿入()れたら、彼がどんな顔をするのか見たかった。……さっきの子じゃ、ダメだったね。彼は嫉妬なんて微塵もなかったようだ」  蓮水はいつもの余裕のある大人の表情とは違い、どこか切羽詰まったように顔を強張らせ、目も血走っていた。 「ここまで私の性癖を考察できたかな?」  蓮水は引き攣った笑みを浮かべた。  その時、蝶子は「間違っていた」と思った。蝶子はずっと、蓮水は主人公に自己投影させて作品を書いているのだと思っていた。自分の手には収まらず、他の男性との逢瀬を楽しむヒロインを見て嫉妬に狂う主人公が、嫉妬によって興奮を感じるある種のマゾヒストが、蓮水の本当の姿なのだと思っていた。しかし、それは違う。あの主人公たちは、蓮水の劣情の対象だったのだ。嫉妬に駆られる男を書くために、蓮水は小説家になったのだ。  それを知っても、蝶子は驚いたが、特別蓮水に幻滅することはなかった。蓮水の言う通り、彼女は彼に「期待をしていなかった」ということだ。 「……少し、違う話をしようか」  蓮水は「ふう」と息を吐いて、何とか冷静さを取り戻しつつ、灰皿に煙草を押し付けた。 「この間、兄貴の葬式があったんだ。兄貴は半年前に癌が見つかって、あっという間に亡くなってしまった。……そこで、昔好きだった女性と久しぶりに会ったんだ」  蓮水の目は、ここではないどこかを見つめ始めた。 「再会した彼女を見た時、『何であんなに好きだったんだろう?』って思ったよ。別に、老けて醜くなったとかではないんだ。今も十分綺麗だった。でも、彼女と二人で話していても、全くそんな気が起きなかった。ほんと、びっくりしたよ。恋愛感情なんて、一時のまやかしに過ぎないのかもね」 「……へえ、どんな人だったんですか?」 「まだ高校生だった私に、女性というものを教えてくれた人だよ。年上で、昔から色っぽくて綺麗な人だった。五年くらい付き合ってたと思う」 「それなのに、別れちゃったんですか?」  すると、蓮水はまたサイドテーブルのほうに身体を傾けて、そっぽを向いて煙草に火をつけ始めた。 「――彼女、兄貴の奥さんだからね」  蝶子の両親は、彼女が小学校を卒業した直後に離婚した。  原因は、母親の不倫だった。しかも、母は不倫相手の子供を妊娠していたのだ。あれほど娘には純潔を望んでいたのに、本人は不倫相手との情事に溺れていた。  両親が言い争う声を、蝶子は廊下で盗み聞きしていた。そして、両親が蝶子の存在に気づいて部屋から出てきた。母親は「チヨちゃん」といつものように優しい声で呼び掛け、抱きしめようとしたのか手を伸ばしてきた。すると、父親が突然母親の頬を平手打ちした。  ――俺の娘に汚い手で触るな!この売女!  優しい父親がそんな汚い言葉を発したのは、後にも先にもこの一度きりだった。  母親は、その日のうちに家を出ていった。  蝶子は、母親のようにはなりたくないと思った。優しい父が、大好きな父が、口汚く罵ったような女にはなりたくないと思った。  それなのに、蝶子はいつの間にか母親のように、性に溺れるようになっていた。  その一方で、自分が理想としていた清廉潔白の女性に憧れを抱くようになっていた。そんな女性たちに、大好きだった頃の母親の面影を重ねていたのだ。そんな女、幻想でしかないと分かっていた。それでも、夢くらいは見たかった。見させてほしかった。  ――天使なんて、人間の世界には存在しない。  蓮水の言葉を聞いて、蝶子は目が覚めたような気がした。  蝶子は、自室に飾られた狸のぬいぐるみと見つめ合った。
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