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第10話 夜に舞う
北大通と東大通に挟まれた住宅街にケモノが現れた――
ドロテが寝床に就くのを見届けた後、自室で目を閉じ、オイレン・アウゲンを町の隅々まで浸透させてゆく。すると今夜は珍しく、フォーゲル領のときからもう何カ月ぶりかにケモノの反応があった。
すかさずアルマは、ジルケから贈られた夜に目立たぬ色の服をその身に纏う。それは丈が膝までと短く、両側に深いスリットの入った紫黒色のローブ。それから同じ色の長ズボン。その上から更にダークグレイのウールのコートを羽織るも、
(消えた!?)
着替えて再びオイレン・アウゲンを拡張したとき、その反応は既に無く、代わりに黒い靄がそこにあるだけだった。町の中にも、外にもケモノの反応は無い。
そう言えばジルケが言っていた。
『イヌイに還魄器持ちがいるとは聞いた事はないが、もし会ったら仲良くするんだよ』
なるほど、これだけ大きな町なのだから、還魄器を顕現できる人物がいたとしても不思議ではないか。きっとそのような者が滅獣したに違いあるまい。何より教会もある。ジルケが口を噤んだ組織とやらに教会が関わっている以上、やはり可能性はあるのだろうなと思っていたその矢先のことだった
オイレン・アウゲンに再びケモノの反応が湧いた。先ほどの場所に、それも二つ。しかし、これも様子がおかしい。靄のようなケモノか、或いはケモノになりかけの靄か。
これはやはり見に行かねばなるまいと廊下に踏み出したが、さて、困った。私はドロテ様の侍女だ。只人に説明の出来ない理由でお側を離れるわけには行くまい。ここは適当な理由をつけてでも、許可を得てから外出をすべきではないか、とアルマは当然にも思うのである。
「やぁ、アルマ。珍しい恰好をしているね。お出かけかい?」
ほんの僅かの時間だったが逡巡していると、廊下をコツコツと早足で歩くオスヴァルトに声を掛けられた。
「あら、兄様こそどちらへ?」
「私は執務室に報告があるのだよ」
「執務室……、というとグスタフ様の? 何かあったの?」
「確かにグスタフ様にお会いするが、何かあったわけではないよ。毎日の報告なんだ。閣下は日頃からご子息方のことを気にかけてらっしゃるが、それはシュテファン様も例外ではなく、いや、特別に気にかけている、と言った方が良いかも知れないな。ともかく、シュテファン様の今日一日の様子をこうして報告に上がるのさ」
「あら、それは良い事を聞いたわ。ご一緒してもいいかしら?」
「んー……、うん。今日の報告内容なら問題はないな。兄と一緒に行こうじゃないか。ところでアルマは閣下に何の用事だい?」
「外出許可よ」
「なんだ、本当にお出かけだったのか。ここの治安とアルマの腕なら危険はないと思うけど、何しろ夜というものは危ないものだ。気を付けるんだぞ」
「ええ、大丈夫よ。夜間訓練の一環だもの」
「ははぁ、なるほど。ジルケ殿の言い付けか。それなら閣下にもそのまま伝えるといいだろうね」
「分かったわ。兄様、ありがとう」
「どういたしまして」
それからオスヴァルトとアルマは兄妹揃ってグスタフと話をした。
「おう、分かった。行って来い。ヴィンシェンツには俺の名前で言っておく。オスヴァルト、ヴィンシェンツへ連絡を頼んだぞ」
あっさりとしたグスタフの返事にアルマは少々拍子抜けし、「畏まりました」と恭しく頭を下げるオスヴァルトを横目に、思わず聞き返してしまった。
「よろしいのですか?」
「ああ。だってなぁ、あのジルケ殿じゃあ、なあ?」
「ええ。ジルケ殿では、ねえ?」
グスタフ、オスヴァルト、そしてアルマと口ほどにものを言う目配せのリレーがあったが、その理由を掘り返すのは野暮、否、藪蛇というものだろう。
「あ、そうだ。アルマ」
部屋を出ていこうとしたところをグスタフが呼び止め、アルマは踵を返す。
「お前のそのブーツ。石畳でも音がしにくいようにレザーソールにしてるだろ?」
「仰せの通りです。閣下のご慧眼、感服いたします」
「世辞はいい。むずむずする。でだ、音もなく近寄るとうちの衛兵どもがびっくりするだろうから、その辺は配慮してくれよな」
「は! 畏まりました。訓練中は衛兵に見つからぬように致します」
「いや、そういう意味じゃないんだが、……いや、それでもいいのか? まあいい。気を付けろよ?」
「ありがとうございます。それではこれにて」
――そしてアルマは闇に舞う。
拡張したオイレン・アウゲンで反応があった場所に大急ぎで向かえば、果たして靄のようなケモノか、ケモノのような靄かは、住宅街の路地に変わらず在り、観察を試みるアルマの視界の先で少しずつ形を整えている。
(犬?)
漸く頭がアルマの肩ほどの高さもある犬の姿が出来上がるであろう、そのときだった。
「なぁ、あんた。こんなところでじっとしてどうしたんだい?」
迂闊だった。
目の前の初めて視る現象に夢中になり、背後から近づく影に気が付かなかったのだ。悪意のある相手ならば、後れを取っていたであろうが、背後からした声は善良な男のもので、幾分か油断した。
そう、油断した。
声のした方へ振り返り、少し距離をとった後、
「少しぼーっとしていただけです。大丈夫ですよ、何も問題あ――」
言いかけたアルマの横を刹那に黒い影が一つ通り過ぎ、人の好さそうな男に飛び掛かった。何も視えていない男の服が裂け、血が滲む。
突然のことに心が水平を保てない。ケモノを出来るだけ見ずに声を掛ける。
「すぐにここから逃げて下さい! 何かがいるようです!」
男は何が起こったか理解できない顔だったが、自身の体にいつの間にか傷が付いていたことは分かったようで、フードを目深に被った顔も見えぬ女からの言葉で慌てて逃げて行く。幸いにしてケモノの攻撃は浅く引っ掻いただけで終わり、男は少しの切り傷で済んだようだ。
そして、ケモノはそれ以上、男を追わなかった。目の前に視える者がいるからだ。ケモノは視えない者と視える者が近くにいる場合、なぜだか後者を優先して襲うことが多い。例えばそれは生存本能とも言えよう。生命とは言いづらいケモノに生存本能というのもおかしな話なのだが。
(前は一つ、ならば後ろにもう一つ。落ち着け)
「響け! ドナ・フルーゲ!」
先に薄翅の剣を二重の静かでいて玲瓏とした詠唱で現わし、呼吸を整え、正面の1頭と正対する。アルマを中心に回転するように移動し隙を伺っているようだ。正面の1頭が動けば、後ろの1頭も同じ方向に動く。
生まれたばかりだというのになんとも仲の良い事だとアルマは思いながら、そのまま正面の1頭に向けて大袈裟に足を踏み出す。正面の1頭は後ろに飛び退いたが、後ろの1頭は好機とみてすかさずアルマに飛び掛かるも、
「かかったな」
振り向きざまに後ろの1頭を横薙ぎに切り裂いた。当初正面にいた1頭はすかさず後ろから飛び掛かる、かと思いきや、一瞬の出来事に臆したか、身を屈めてその場にじっとしているではないか。
お互いに様子を見ている間に斬り伏せた1頭が霧散する。
この大きさならナハトルーエは不要と分かった。ならば斬るのみ、とアルマは躊躇なく間合いを詰め、右手に握りしめた薄翅を袈裟に振るう。しかし、ケモノも斬られまいとして向かって右に跳ぶ。すかさずそちらに1歩踏み出しながら剣の軌道を鋭く曲げ、ケモノを薙ぎ払うことに成功した。
事を為した後も、屋敷裏の林での一件から暫く警戒を続けるも、ケモノは現れなかった。やがて、あの男が衛兵に相談でもしたのだろう。4つの靄がまとまって自分の方へ近寄ってくる。
これを頃合いと見たアルマは音も無くその場から立ち去る。愛らしい主の待つお屋敷に戻るため。
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