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第12話 ヒトガタ
「アルマ! アルマ! どうした! しっかりしろ!」
「……だ…れ? 逃げ…て……」
腹から血を流し気を失ったアルマを、フードを目深に被った人物が抱きかかえ、詰所に走る。自身の服が汚れることも厭わずに。返事のないアルマに何度も、何度も、何度も何度も声を掛けながら。
事の発端はこれよりほんの数時間前、兄妹が宿場町ツチダに視察に訪れたところから始まる。
オスヴァルトとアルマがイヌイのすぐ北にあるツチダに到着したのは、指示を受けてから2日後の10時頃のことだった。
ツチダは規模の小さな古い宿場町である。北西方面の標高が高く南東方面が低い、なだらかな傾斜のある形状をしていた。遠く北方にある鉱山の町チェルベネーミェストから鉄を運ぶ道――赤鉄街道沿いの町として、昔は鉄を扱う商店や工房もそれなりにあったが、イヌイに運河が作られると多くがそちらの方へ移ってしまい、今は崩れかけた炉の跡が往時の面影を残すばかり。
「ねぇ、兄様。北門方面の坂の途中だけど、入口が道に面していない建物が多かった気がするの。どうしてかしらね?」
衛兵長ボニファーツ・バルベに挨拶をしたオスヴァルトとアルマは、悪い言い方をすれば古臭い、良い言い方をすれば商人たちが忙しなく街道を行き交いながらも、どこか長閑で風情のあるこの町の様子を見て回り、今は広場に面した食堂で一息ついているところである。
「そこに気付くなんて流石は私の妹だ。だが、それは機密事項だからここでは話せないな。でも、それだともやもやしてしょうがないだろうから、ヒントだけでもあげようじゃないか」
とってつけたような勿体ぶった兄の物言いに、妹の心は細波立ったが、これも訓練に違いないと努めて平静を装う。
「ええ、是非とも」
「その建物は全てオダ家の所有なんだ。そして衛兵が管理している。ここまで言えば分かるんじゃないかな?」
「……なるほど、そういうことだったのね。分かったわ」
「本当に分かった?」
「本当よ。兄様ったら妹を疑うのかしら?」
「ははは、どうだかね。イヌイのお屋敷に帰ったら答え合わせをしようか」
「それがいいわ。約束よ?」
「ああ、約束だ。……さて、近隣の集落も見て回らないといけないから、私はそろそろ行かなきゃならない。夕方には戻れると思うから、アルマはそれまで詰所で待機していて欲しいんだけど、いいかな? 勿論、引き続き町を見ていても構わないよ」
「じゃあ、この後も町を見学してみるわ。興味深いものも見つけたし」
「そうか、それは何よりだ。ではまたね」
「ええ、また」
どうしたものか。馬で発ったオスヴァルトを見送り、アルマは”興味深いもの”に思いを巡らせる。彼女の興味を惹いた”それ”は、形ばかりの北門から西に少し外れたところに在った。
今も、在る。拡張したオイレン・アウゲンではっきりと、明確に。
それはいつかジルケが言っていたヒト型のケモノに違いない。黒い靄がヒトの形をして映るのだ。ケモノ以外に何があろうか。幸いにしてケモノの周りには、他の靄は存在していない。近くに人がいない証拠である。滅獣をするなら今のうちだろう。
だが、やれるのか? 兎、犬、狼、猪、果てはドラゴンと、今まで戦ってきた相手は剣の覚えもない獣たちだった。
ヒトはどうだ?
ヒトの形をしたケモノはどのように動くのか。
武器はどうか。大きなナイフのようなものを持っているが、あれを使いこなすのだろうか。一本だけなのか。弾き落としたらどうなるのか。力は、身長は、瞬発力は……。
様々に見当を付けながらそれがいる場所まで歩いていく。不安を取り払うように敢えて力を抜き、一定の歩幅で慎重に、そして普通に。
――いた。
ケモノは何をするでもなく、高さ3メートルほどのセイヨウサンザシの樹に向かって佇んでいた。まるで、樹を眺めているようだとアルマは思う。
「響け。ドナ・フルーゲ」
ケモノの姿を横から確認したアルマは、静かに自身の還魄器を顕現させる。ここから先はいつ戦闘になってもおかしくはない。
近づけば、ヒトの形をしたケモノはどこかで見覚えがあるフード付きの上着を着ているようにも視え、その体の、特に腰から膝にかけてのラインはズボンを履いていても女性と思える。そして、大型ナイフ――
想起されるのはジルケから聞いたあの言葉。『……刃は一瞬だけそいつの姿になり、その後すぐに黒い靄となって霧散した』。女性だとは聞いていなかったが、あれはもしかすると、そのときの刃なのかも知れない。ふとそんなことを思ったときだった。
人の形をしていながら曖昧模糊とした黒靄の塊にあって、唯一、明瞭としているそのくすんだ茶の瞳がぎょろりとアルマを睨んだかと思えば、瞬く間に肉薄し、大型ナイフを猛然と突き出した。
アルマはこれを薄翅の剣身で弾いていなせば、お返しとばかりにケモノに三度、突きかかる。しかし、敵もさる者。それを二度避け、三度目は大型ナイフで軌道を逸らされた。その間、ケモノはアルマとずっと目を合わせていたが、やがて精神汚染が通じないと分かるや、目を合わせることはしなくなった。
ヒトでないのに人間臭いことを、と思うも、ケモノとの打ち合いは一層激しさを増し、アルマは自然と、ただ相手に打ち勝つことのみに集中していく。無心に、ただひたすらに、相手がヒトでないことも忘れて。
大型ナイフを弾き、踏み込んで袈裟に斬れば、既にそこになく、また相手が踏み込めば躱し、弾き、或いは間合いを離す。それは延々と続くかのように思われた。
しかし、終わりはいつも突然やってくる。
ケモノの突きを横に躱そうとしたときだった。移動しようと思った先に、セイヨウサンザシの樹があったのだ。身体を強く打ち付けつつも、なんとか突きを弾いてしのいだはいいが、次の瞬間にはアルマの腹に深々と大型ナイフが刺さっていた。
「闇に眠……れ。ナハトルーエ」
思い出したかのように滅獣の理を唱えるも、ケモノは大きく飛び退き、箱に入る前に範囲外に出ていってしまった。
次弾を狙い、気力を振り絞ってケモノを見据えるが、腹から次々と血が吹き出し意識が遠のいてゆく。
「押し流せ。クラーハ・シュトーム」
「閉じよ。ブラウス・ゲフェンネス」
直後、誰かがとても遠くで叫んだような気がするが、それが現実のことなのか夢であるのか、暗闇に落ちかけていたアルマに判断する術はない。しかし、不意に誰かが彼女を抱きかかえ大声で呼びかけた。
「アルマ! アルマ! どうした! しっかりしろ!」
「……だ…れ? 逃げ…て……」
すでに視界も無いに等しく、ただ犠牲者が増えないようにとアルマは声を振り絞るが、既に限界だった。それから彼女は無限とも思える闇に落ちてゆく。
*
「あれ? ちょう……ちょ?」
アルマはまた夢を見た。
昔見た夢。
ずーっと忘れていた夢。
色とりどりの鮮やかな花に囲まれた夢。
今度は上からではない。アルマは花畑に寝そべり、視界の端には花弁が映る。
そこを蝶が横切って行った。その体は靄のようであり、翅には大小さまざまな人の眼がある。
そうか。私は死ぬのだなとアルマは予感した。
昔見た夢の通りならこの後、私の体に無数の蝶が群がり、骨になるまで食べられてしまうのだ。
そう思った途端、蝶が群がり視界を塞ぎ、蝶には無いはずの歯を立て、どんどんとアルマの肉を蝕んでいく。不思議と痛みはないが、夢なのだから当たり前かと被りを振った。
そう言えば還魄器はどうなるのだろう。確か、顕現させたままだったはずだ。
そのように思えばアルマの右手はいつの間にか使い慣れた薄翅の剣を握っている。そして体に群がっていたはずの蝶は気付けばその剣身に群がり、やがて刃と溶けた。
次の瞬間、アルマは意図せず立ち上がっていた。
目の前には自分の背丈ほどもある蝶が翅を休めているかと思えば、オスヴァルトにそっくりな声が、あろうことかその蝶から発せられた。
「アルマ、もうお昼だよ。そろそろ起きてもいいんじゃないかな?」
そしてアルマの視界に広がるは見慣れぬ天井と、憂いの表情をした兄の顔。
「あぁ、あぁ、アルマ……、良かった。目を覚ましてくれて……」
今にも泣き出しそうなオスヴァルトに比べてアルマは実に冷静なもので、先ずは還魄器の感触を確かめ、顕現していないことを確認。次いで仰向けの姿勢のまま、兄に話しかける。
「兄様。お食事にいたしましょう。私、どうやらとてもお腹が空いているようなのです」
「ん、ああ、そうだ、そうだね。でもその前に上半身は起こせるかい? 何せ3日も寝込んでいたんだ。あちこち確認しながらやっていった方がいいんじゃないかな」
そう言われてアルマは自分が腹を刺されたことを思い出した。それも深々と。よくもそれで生きていたものだと自身の生命力に感心するとともに、疑問が湧きあがった。
「私を助けてくれたのは兄様なのですか? それにここはいったい?」
どうにか上半身を起こして兄に問えば、兄より先に反対側から返事が聞こえてきた。とても低い女性の声で。
「あんたを助けたのはあたしだよ」
声の方を見ると、母ブリギッテによく似た女性が座っていた。しかし、ふっくらと柔和な顔をした母とは違い、目の前の女性は凛々しい顔立ちをし、髪色こそ同じ明るい茶色――飴色だがショートカットで、長い髪を編んでいる母とはやはり異なる。
アルマがきょとんとしていると、察したのか、自ら名乗りだした。
「あたしの名はベルタ。ベルタ・アルニムだ。ブリギッテの妹だよ。あんたとは叔母と姪の関係になるね。ま、最後に会ったのもあんたがまだ赤ん坊の頃だったから、知らなくてもしょうがないね」
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