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第14話 変容
「アルマ、行くよ」
「はい、小母様」
「過去に区切りを付けようじゃないか」
――これより遡ることおよそ7カ月前、アルマは生死に関わるような大怪我から順調な回復を見せ、イヌイの領主屋敷でドロテ付きの侍女として復帰していた。
「アルマさん、大丈夫? お腹が痛くなったら休んでいいのよ?」
傷は塞がり、歩けるようになったとは言うものの、やはり日常的な動作の端々で痛みに襲われ、苦痛に顔を歪めてしまうことがまだまだ多い。そんなときにはドロテが決まって心配そうな顔で覗き込み、アルマを気遣う言葉をかけていた。
「アルマさんが大怪我をして教会で治療を受けているって聞いたから、私、お見舞いに行こうとしたのよ。そしたらお父様が『いずれ帰ってくるのだから、それまで我慢しなさい』って言うのよ」
少し腹が立ってしまったからお父様に言っちゃったのよ、とドロテは話を続ける。
「お父様のことなんて嫌い! って」
「あらあら。それは閣下も嘸かし悄然とされてしまったのではないですか?」
「そうなのよ。お父様が今にも泣きそうな顔で俯いてしまったから、慌てて謝ったわ」
「それは善い事です。ドロテ様が謝罪された後の閣下はどのようなご様子でしたか?」
「少ししか元気にならなかったのよ。だからね、その夜はお父様と一緒に寝てあげたわ。もっと小さい頃、メソメソしていた日に、お父様がよくそうしてくれたもの。メソメソしているお父様を今度は私が元気にしてあげなくては、と思ったの」
「それは良い事をなさいましたね。閣下が元気になる姿が目に浮かぶようです」
「そうよね! だからアルマさんもお腹の傷が痛いときは一緒に寝てあげるわよ?」
「勿体ないお言葉です。ふふふふ」
ドロテが休むように促してもアルマはなかなか休まなかったため、ドロテはアルマの復帰から数日と経たずに作戦を変更した。休まないのであれば休ませれば良いのだ。
具体的にどうしたかと問われれば、至極単純。座って話相手になれ、或いは、座って本を読み聞かせるように命じただけ。しかし、放っておけばドロテの動きを先回りしてあれやこれやと世話をし始め、何も無ければ無いで傍で立って待機していることが当たり前のアルマには他に方法が無いようにも思われた。或いはそれは、主の気遣いを無下にすまいとのことだったのかも知れないが。
それにしても、とアルマは思う。ドロテ様以外、閣下にもお心遣いを頂き、また、両親と3人の兄たち、そしてジルケ小母様とベルタ叔母様にも過分に愛され、私はつくづく幸せ者だと。
だが、幸福感と怪我の回復は残念ながら結びつかないのである。已む無く剣の稽古を自重し、休止していたこの頃のアルマは、幸せだと口にしながらも精神的に不安定だったと兄のオスヴァルトは語っている。
オスヴァルトと言えば、アルマの怪我から3カ月ほど経った頃から彼女に剣の稽古を付けている。自身はどうしても妹には甘いため、そのまま武門であることなど忘れて侍女にすっぽりと収まってくれれば良いと思っていたのだが、身に着いた習慣というものは、性というものはどうにも消え去ってくれないものらしい。
「私に兄様の細剣を教えて下さい」
アルマからそう言われたときは、もともと前のようなことを思っていたから、ひどく困惑したものだが、結局、熱意に負けて引き受けてしまったのだ。やはり自分はつくづくと妹に甘いとオスヴァルトは思った。ところが稽古を始めてみると、アルマは水を得た魚が如く自分の指導をどんどん吸収していくではないか。
オスヴァルトの使っている細剣というのはランスを小型化した針のようなものではない。種類としては両刃のレイピアやスモールソードになるのだろうが、一般的な物よりも長く、幅もあり、そして剣身に厚みがあった。昔のエストック、またはパンツァーシュテッヒャーと呼ばれていたものに近いのではないだろうか。
その細剣は、全身甲冑が隆盛となった頃に一度は衰退したが、その携行性の高さから平時の護身用として扱われてきた。故に、扱える者は多くとも、あくまでも2番手、3番手の武器であり、オスヴァルトほど熟達した者など王国内には皆無だったであろう。そういう意味ではアルマは非常に幸運とも言えた。
「うん、かなり使いこなせるようになってきたね。欲を言えば、左手のマインゴーシュが疎かになってしまうことが多いようだから、もっと攻撃や牽制に使うといいんじゃないかな」
そんな調子で細剣の稽古を始めてから3カ月経った頃、アルマはもうすっかりオスヴァルトとの打ち合いにも耐えられるようになっていた。勿論、一本取ることなどは適わないのだが。
体の調子のことは、よく分からない。怪我を負う前がどんな感じであったかなど忘れてしまった。ともかく今は体が動く。以前よりも軽やかだと錯覚するまでに。それはとても喜ばしいことだった。
怪我の回復や細剣の稽古とは別に、アルマにはもう一つの変化があった。いや、正確には彼女の還魄器に。恐らく、細剣のイメージが影響したのであろう。何気なく具現化させてみれば、その姿は以前よりも細く、そして象徴的だった片翅も随分とその面積を小さくしていた。
更に、マインゴーシュである。これも今の稽古が影響しているのであろう。いつしか具現化の際に、左手にも剣が握られるようになったのだ。それは姿形こそ右手に現れるものと酷似しているが、その長さは半分ほどで、より、儚い。
だからといって何かが変わったわけでもない。重さは前の形状からほとんど感じていなかったし、寧ろ、掴もうとしてもがいている戦闘スタイルに合致したものになって好都合だとアルマは内心、喜んでいた。
そんな日々が続いていた2月の或る日、ジルケが突然、イヌイのお屋敷にアルマを訪ねてきた。
「小母様、お久しぶりです」
「ああ、久しぶりだね、アルマ。ツチダのお見舞い以来だ」
「その節はありがとうございました。閣下とダミアン様が打ち合いを所望されていたようですが、お疲れではないですか?」
「あいつらは人の顔を見てはすぐに稽古だ、勝負だなどと騒ぎ立てるんだから、まったくしょうがないもんだよ。ちょっとはお前やバルナバスみたいに気遣って欲しいもんだ。ま、丁重に断ったから疲れてないよ。安心しな」
「バルナバス……さん? というのはどなたでしょうか?」
「うん? そうかお前は知らないんだったね。数少ない弟子の一人さ。ま、ほんの数カ月、稽古を付けてやっただけだがね」
「その方も視えるの?」
「いいや。あいつは視えないよ。でも、なかなか才能がある男だった。傭兵になって『静剣』なんていう異名まで付けられちまったらしいが。……おっと、いけない。今日はこんな何十年も前の昔話をしに来たんじゃないんだよ」
「あら。私を心配して来てくださったと思ってたのに」
「もちろんそれもあるが、本題はこれからだ。ツチダに行くよ」
「え? 何をしに?」
「決まってるだろう。あいつを滅するんだよ。ヒト型のケモノをさ」
「ツチダのベルタ叔母様に何かあったのでしょうか?」
「何も無いよ。組織の指示でサコに行っているようだけど。それで私にお留守番をお願いしてきた訳さ。あのマインゴーシュ使いのケモノがまた姿を現さないか心配なんだと」
「それで因縁のある私に声を掛けて下さったのですね」
「そういうことだ。分かったのなら準備しな」
「あ、でも、閣下とヴィンシェンツ様から許可を貰わないと」
「大丈夫だ。グスタフには私から言っておいた」
領主でもあり一国の宰相でもある閣下を呼び捨てにして大丈夫なのだろうか。だが、二人の間には私の知らない関わり合いが何かあるのかも知れないと、アルマは腹に納める。
「では、ドロテ様に挨拶をして参ります」
「分かったよ。早めに済ませておいで」
言うが早いか、アルマは稽古のためにツチダに行くという理由で数日間の別れをドロテに申し出た。ドロテは実に不安そうな顔を向けていたが、アルマが伝説の女剣士と一緒に行くと伝えると、小さな公女は途端に目を輝かせて一緒に行くと言い出した。これはしまったとアルマは思うも、ドロテ自身から聞いた閣下の話を持ち出して何とか振り切ることに成功。無事に帰ってきたら一緒に寝る約束を交わされてしまったが。
而して1572年の2月末。アルマとジルケの年の離れた師弟は、ツチダで作戦を開始した。
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