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第15話 はね
ジルケとアルマの師弟は1572年の2月末にツチダに入った。宿泊に利用したのは、中心部から東に少し歩いた住宅街の中にあるシェスト教の教会、その信徒用に設けられた宿泊施設である。宿屋を使えば良いと思うのだが、こちらの方が滞在費用も安く、また利用する者が少ないために活動しやすい、とのジルケの意向によるものであった。
到着初日。先ずはオイレン・アウゲンを拡張して1キロメートル先まで探るも、特に目立った反応はなかった。アルマにもジルケにも。念のために町の中を歩き回り、北門から西にあるセイヨウサンザシも見に行くも、やはり何も無い。
2日目。町を散策しつつ、二人で交互に拡張したオイレン・アウゲンでの探索も試みることにした。すると午前中に早速反応が表れたが、それはケモノではなく、白炎であった。その弱々しい揺らめきは四つの黒靄を伴ない、南門から代官屋敷に向かっていく。その配置から、代官が従者を伴い二頭立ての馬車で屋敷前に入っていったのだと推測された。そう言えば、と目を閉じたままアルマが呟く。
「シュテファン様が近々ツチダの代官に就任されると、オスヴァルト兄様が話してました」
「前にアルマが連絡をよこした1人か。靄の中にあって消えそうでいて消えずに存在を主張している。実際にこうして感じてみると実に不思議なもんだね。そう言えばアルマ」
「はい」
「ここの衛兵を束ねているのはボニファーツだったかい?」
「ええ、去年から異動していなければボニファーツ・バルベ様ですね」
「そうか。それなら顔くらい出しておかないとね。私はこれからちょっと詰所まで行ってくるよ。アルマは好きにしててくれ」
そう言い残してジルケは足早に歩き去っていった。突然のことに困惑の色を隠せなかったが、歩き回ればいざというときに合流が不便であろう。ほんの少しの逡巡の後、結局、アルマは教会に戻ることにした。宿泊施設の中庭で通常の剣の稽古と、合間に拡張オイレン・アウゲンの探索を行なおうという考えである。
そうして八角形の建物の上にある機械仕掛けの鐘が11度揺れ動いて暫くの頃だろうか。久しぶりにアルマが長閑な時間を過ごしていたところにジルケが帰ってきた。
「おかえりなさい、小母様。いかがでしたか?」
「なかなか呑気で凡庸そうな男だったよ」
「まあ。小母様から見たら、かのボニファーツ様と雖も形無しですね」
「ボニファーツ? ……ああ、そういうことか。違うよ」
「違う?」
「ボニファーツは相変わらずだったよ。あいつは自分を弁えているから、稽古だの手合わせだのとは言ってこない。真面目な男だ」
「では、呑気で凡庸そうな男というのは?」
「なんだい、お前はオイレン・アウゲンを使ってなかったのかい? ……拡張しないと南門までは届かないか。じゃあ、しょうがないね。その男はね、弱々しい白炎持ちだよ。前に聞いた一人かも知れない」
アルマはその話を聞いて俄かにその表情を固くする。
「小母様はその男、……男性とお会いになってお話してきた、と?」
「その通りだ。迷子になっていたようでね、うろうろしてきょろきょろと辺りを見回してたから声を掛けてみたら、詰所に行きたかったらしいのさ」
「詰所。とすると衛兵でしょうね」
「ああ、そう言ってたね。私が見る限りでは、いたく平凡で少なくとも悪人ではない普通の人間だった。これで白炎が何であるのか、益々分からなくなったよ」
「そうでしたか。その方のお名前は何と?」
「そいつはうっかり聞き忘れちまったが、お前が気にするほどの男でもなかったから忘れるがいいさ。今はともかくケモノを見つけることに集中しようじゃないか」
「あらあら、誤魔化されてしまいました。ですが、そうですね。探索を再開しましょう」
新しい出会いと発見は期待外れに終わり、二人は朝に決めた探索行動に戻る。そして弱々しい白炎が代官屋敷で邂逅を果たした赤昏い誰そ彼時、ジルケの拡張オイレン・アウゲンに変化が訪れた。
「出たよ。あいつだ」
目を薄く開き、結果を告げるジルケにアルマは無言で頷く。
「アルマ、行くよ」
「はい、小母様」
「過去に区切りを付けようじゃないか」
太陽が水平線に接したときからアルマはすでに紫黒の上下に着替え、臨戦態勢であった。そこには恐れや紕いなど存在しない。ただ、一敗地に塗れた相手に打ち勝つ意志さえあれば良いのだ。
既に幹道を行き交う人々のランタンと家々から漏れる光のみが照らす闇の中、二人は敢えて灯りのない暗い道を辿る。オイレン・アウゲンを常時展開していれば、暗い夜道も昼間同然であった。
そうして7カ月前と同じ北門の西側に到着すれば、それはまたしてもセイヨウサンザシの樹に向かって佇んでいた。既視感のある光景にアルマは軽く恐怖を覚えるも、次のジルケの言葉で忘れ去る。
「ここからはお前の勝負だ。一人で戦いな。いいね? 無論、危なくなれば私が助けるがね」
「はい、行ってまいります」
「ああ、行っておいで」
そしてアルマはそれ――自身に深手を負わせたヒト型のケモノにゆっくりと近づきながら、いつもの文句を唱える。静かに二重に、そして玲瓏と。
「響け! ドナ・フルーゲ!」
現れたのは淡く紫黒に輝く一対の片翅の剣。そして動きのないヒト型に向けて素早く唱えた。
「闇に眠れ! ナハトルーエ!」
直後、剣身がほろほろと解け、瞬く間に神紋の箱が形作られた。その紫黒に輝く箱はヒト型を包み込んだまま急速に消滅……、したかに見えたが、次の瞬間にはヒト型の姿はアルマの目の前にあり、彼女の顔を目掛けて猛然とマインゴーシュを突き立てる。
しかし、これはアルマの想定の内。再度、形作られた一対の薄翅の剣身。その短い方でマインゴーシュを叩き伏せると、ヒト型のそれこそヒトのような眼に驚きの色が見えた気がした。
そして相手に隙が出来たと見るや、ただ見ているだけのアルマではない。すかさず右手の長剣を敵の脳天に目掛けて斬り下ろした。これは、ヒト型の右肩を斬り落とすに留まったが手応えとしては上々である。
右肩から先を、そのマインゴーシュごと失ったヒト型は、回復する時間を稼ごうと、右肩の切り口から黒靄を吹き上げつつも、一心不乱に逃げ回る。アルマもとどめを刺そうと頻りに剣を振るうが、この勝負の軍配はヒト型に上がり、やがて最初からそうであったように右腕とマインゴーシュが存在していた。
その後もアルマが圧倒していたが、四肢のいずれかの切断はあっても、急所を捉えるには至らず、やがて彼女の心はすり減り、そしてそのときは訪れる。
「う……」
アルマはヒト型と目が合った。普段の滅獣なら何気ない、何事もない、何も起こらない動作。
だが、圧倒しながらもとどめを刺せない苛立ちから、冷静さを失っていた彼女の心の檻。入り込んだ巨大なヒト型がそれを握り潰そうと試みる。彼女はただただ、檻の中で膝を抱えて震えるばかりであった。そして繰り返し再生される蝶の捕食。
そのときだった。彼女の中に、彼女の心に名もなき声が響き渡り、そしてアルマのスモーキークォーツの瞳は輝きを取り戻す。
やがて聞こえるは二重の言葉。聞き慣れた声の聞き慣れぬ言葉。
「啼け! トッド・シュメタリン!」
2本の薄翅を地面に突き立て玲瓏と唱えれば、その剣身は瞬く間に無数の蝶となって消え、群れを成してヒト型に纏わりつく。それは鳥の翼が如き4枚の翅を持ち、仄かに紫黒に輝く異形の蝶。
異形の蝶の群れは瞬く間にヒト型を覆いつくしたかと思えば、そのこんもりとしたヒトの形は音も無く縮み、最後には霧散した。
後にはただ明るい闇と、アルマを背負った優しい老婆が残るばかり。
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