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【第1章 幼 】第1話 兆し
私が生まれた世界にはケモノがいた。
それは、ヒトの世を破壊する厄災だった。
――石畳の道を、一人の少女が駆けていた。
少女の両側を黒い木の柱と白い漆喰の壁が次々と通り過ぎていく。
時刻は深夜。
少女が一人で出歩くには、実に危うい。
昼間の熱気が鳴りを潜め、月ばかりが冷たく彼女を照らせば、黄のリボンでまとめられたダークブラウンの長い髪と、夜の如き紫黒色のローブが浮かび上がった。それが、彼女の動きに呼応して懸命に揺れ動く。
やがて少女は石畳の幹道を外れ、何かから逃げるように土の路地を踏み進むも、しかし、広い袋小路に入り込んでしまった。
少女はしまったと言わんばかりに素早く後ろを振り返る。
すると何かは3頭の犬となり、彼女を取り囲むように移動し始める。
だが、それを犬と呼称していいのかは分からない。なぜなら、それは黒い靄で体が構成された境界の曖昧な異形なのだから。
異形たちはじりじりと距離を詰めていたが、間合い十分となったのか、正面の1頭が少女目掛けて飛び掛かる。
しかし、少女は見計らっていたかのように右手を前に出して声を発した。静かに玲瓏と。
「響け! ドナ・フルーゲ!」
それは一人で発したにもかかわらず、高低が混ざり合った不思議な音だった。
刹那、飛び掛かった犬は体が裂け絶命。
いつ手にしたのであろう。
少女の右手には、蝶の片翅のような刃を持つ剣が握られているではないか。
残り2頭。少女は振り向き様に剣を横薙ぎに振るうと、背後から飛び掛かってきていた1頭が音もなく切断される。まるで全て見えているかのように。
そのまま体を開くように右側面に踏み込み、ローブの深いスリットから紫黒を纏った足を大きく覗かせる。その流れで、体を捻りながら踏み出した方向に剣を突き出せば、残る1頭に深々と突き刺さり、3頭はやがて朝靄が風に吹かれるがごとく霧散した。
よく見れば彼女が持つ剣の刃は薄く幅広い。また、蝶の翅のような形であるにも関わらず、黒く半透明で、トンボやセミなどのように翅脈がハッキリと見えた。しかも、その翅脈は淡く紫黒に発光している。
少女の持つ剣と言い、先ほどの犬と言い、とても尋常ではない。だが、尋常でないことはまだ終わっていなかった。今度は袋小路の出口を塞ぐように、人の2倍はあろうかという大きな犬が1頭、黒い靄から形作られたのである。
巨犬は少女を視界に捉えると、その大きな口を開け、巨体に似合わぬ速度で猛突進する。しかし、少女はその端正な顔を崩すことなくひらりと躱す。途端に巨犬は前につんのめり、もんどりを打った。見れば巨犬の前足が無い。
すれ違う、その刹那に少女が切ったのだ。
巨犬はじたばたと転げまわっているが、両前足の切断面からは黒い靄が吹き出していた。失った足を形作らんとしているのだ。とは言え、少女もそれをただ眺めているだけではない。
「ふ!」
隙を逃すまいと素早く間合いを詰め、一閃。続けて二つ、三つ、四つ、五つと深い紫の軌跡を描きながら巨犬を斬り刻む。なす術もない巨犬は一層、苦しそうにのたうち回るが、依然として黒い靄は変わらぬ勢いで吹き出し続け、その体を再び形作ろうと執着していた。
やはり駄目か。少女がそう思ったかどうかは定かでないが、巨犬に向けて優美な剣を突き出し、口を開いた。
「闇に眠れ! ナハトルーエ!」
再び静かに、二重に玲瓏と唱えると、朧気に紫黒の光を湛えるシェストの神紋が突如として巨犬を囲む箱のように現れる。その昏くも神々しい立方体はやがて急速に萎み、そのまま消滅した。そこにはただ余韻が残っているばかりである。
(もう残っていないな)
注意深く、しかしそれとなく周囲を確認し、愛らしい主の待つお屋敷へと歩き出す。手に持っていたはずの剣は杳として知れず。
その彫像の如く整った顔立ちの少女の名はアルマ・フォーゲル。齢16歳。この物語の主人公である。
アルマがこの尋常ではない事象に巻き込まれ、力を手に入れたのはこれより7年前、9歳の頃であった――
*
「小母様、アレはなあに?」
9歳のアルマは砥粉色の厚手のシャツとズボンを身に着け、お屋敷の裏庭で剣術の稽古を行なっていた。幼い頃は両親にも3人の兄にも使用人にも愛され、よく笑いよく泣いた女の子であったが、しかし、フォーゲル家は代々の武門のお家柄。物心ついた頃から訓練用の木剣や木槍を握らされ、当たり前のように設置してある、これほど貴族の庭に似つかわしくない物は無いであろうという木人に打ち込み、そしてときに人と対する。
アルマも例外ではなく、当然のように当代最強とも噂されるジルケから指導を受けていた。
身長約170センチ、アルマと同じスモーキークオーツの瞳、そして天藍のリボンでまとめた白髪混じりのダークブラウンの長い髪。彼女は、フォーゲル家の兵長として、オダ家、或いはアシハラ王国の尖兵となり北のリヒト、東のドリテと戦ってきた女傑である。
さて、そんな女傑に質問したアルマであったが、実はアレを見るのは今日が初めてではなかった。稽古を始めた当初から、裏庭から続く林にたまに見えていたのだ。仄暗く、輪郭のはっきりしない兎のような生き物が。
以前までは後ろや横を向いていたため、あまり気にしていなかったが、しかし今ははっきりとこちらを、アルマを見ている。
「アルマちゃん。アレ、って何だい?」
ジルケはどうやら見付けられていないようだ。指を差すためにもう一度アレがいた方を見た、そのとき、アレと目が合った。合ってしまった。
刹那、その兎が飛び込んでくるような感覚を覚え、総毛立つ。次の瞬間にはアルマは気を失い、糸の切れた操り人形のようにその場に倒れた。
「アルマちゃん! どうしたんだい!?」
ジルケが必死に呼ぶ声が聞こえたような気がするが、アルマはすでに夢の世界。
(きれい……)
どこにあるとも知れない、森の中の大きく開けたところに出現した花園。アルマはその中に横たわり寝ているようだが、自身の意識はやや高い位置からそれを眺めている。暫くすると、花の蜜を味わいに来たであろう蝶がその愛らしい顔にとまる。
(かわいい)
メルヘンチックなその光景をただただぼんやりと眺めていたが、アルマにとまる蝶は1頭だけでは無かった。次から次へと蝶がとまり、じきに蝶の群れでこんもりと体が覆われてしまったのである。言い知れぬ不安を感じながらも視線を逸らせず凝視していると、それは次第に萎んでいき、蝶の群れが消え去った頃には、すっかり骨だけになってしまった自分が残されていた。
(ひ……)
その光景に彼女の幼い心は言い知れぬ恐怖で支配され、途端に、強い力で引き寄せられるように意識が骨に取り込まれそうになる。
だが、そうはならなかった。突如として宙にドアが現れ、その向こう側から伸びてきた大きな手に連れ去られたからである。
「アルマちゃん、大丈夫かい?」
而して少女は目を覚ます。横たわった彼女の瞳には、自分を心配そうに覗き込む初老の女性、ジルケの姿が映った。
「ああ、まだ寝ていた方がいいよ」
体を起こそうとしたアルマをジルケが静止し、話し続ける。
「アルマちゃんはアレが視えるんだね。だけど、アレを視てはいけない。アレは良くないものだ。お前さんは小さいからまだ分からないだろうけど、見かけたら先ず心を閉ざすんだ。心の閉じ方が分かるまでは絶対に目を合わせてはいけないよ」
「分かりました。ところで……」
「うん?」
「アレは一体、何なの?」
「そうだね。気が付かないふりをしていたが、視えているのなら隠す必要もないか……。アルマちゃんはシェスト教の昔話を知ってるかい?」
「ええ、もちろん。母様が何度もお話してくれるわ」
アルマは心無しか得意気である。
「そうか。お前は良い家族に恵まれたね」
そうしてジルケは一息ついた後、ゆっくりとアルマにだけ聞こえるような声で言った。
「あれはケモノだよ。ヒトの世を破壊する厄災だ」
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