白霧之至 腰抜け

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白霧之至 腰抜け

 ――そして世界は再び形作られる。  色が塗られた世界で響くは、喧々囂々(けんけんごうごう)とした戦場(いくさば)の如き怒号と騒音の群れ。200を下らぬ兵士たちが敵味方入り乱れて命の奪い合いをしているように見えるが、オイレン・アウゲン(梟の瞳)は眼前の人の多さにも相変わらず無反応で、どれほどの人間がここにいるのか正確に知る(すべ)はない。しかし、ここは戦場(せんじょう)ではなかった。  ……小規模な部隊同士の偶発的な小競り合いか。  大きな雲が悠々と泳ぐ鮮やかな天藍(てんらん)の空の(した)、なだらかな斜面の続く真緑の丘の、その比較的(たい)らかな地形を縫うように通る街道。そこを中心に群がる兵士たちを見てアルマは瞬間的にそう感じたが、だが、違和感がこびりつく。果たしてこれは小競り合いなのか、と。  違和感の正体は何かと、注意深く、かつ、俯瞰(ふかん)すれば、目に付いたのは黒く透明な光沢のある4頭立ての馬車(ワーゲン)。そして、片や黒地に白いセイヨウサンザシのリベリー(お仕着せ布)、片や大半の兵士はスカイブルーの生地に黒のスピノサスモモのリベリー(お仕着せ布)馬車(ワーゲン)の側面には黄色い盾の紋章も見て取れた。そこでアルマは映像の断片から記憶を手繰(たぐ)り寄せ、こう結論付けた。  これはグスタフ閣下が、お館様が卑劣な待ち伏せに()って運命を散らしたときの、その場所の記憶なのだと。  我ながら荒唐無稽(こうとうむけい)な話だとアルマは思う。しかし、見たこともない光景が、その細部に至るまで生々しく展開されてゆく(さま)()の当たりにすれば、こうして見せつけられれば、そのような結論に至るのも無理からぬ事であろう。  自身の理解を超えた事象。  神、或いは空、或るいは雲、或いは風、或いは土、或いは草木、或いは蝶、或いは花、或いはヒトの記憶の集合。それを、このどこまでも深く白い霧が呑み込み、(あら)わすのだろうと。  次の瞬間、彼女の視界は吸い寄せられるように馬車(ワーゲン)を通り抜け、街道の西側斜面へと移動した。そこに広がるは連鎖するヒトの死の景色と、場を支配する二人の大男。通常であれば合戦(かっせん)の経験もない娘には(こく)な景色であるが、当のアルマは実に冷静に物言わぬ兵士たちが転がるその光景を眺めていた。生々しくありながらもこれが現実ではないと思ったからなのか、(おのれ)が打ち(たお)されぬ神の如き視点で見ているからか。  じきに二人の大男の会話が耳に、鮮明に入ってくる。一人は長袖のチュニック(軍服)、一人は白いバンドカラーのシャツに焦げ茶のベスト。標準的なロングソードを得物に、実に楽しそうに。 「お館様! こいつは、ふん! 滑稽ですな」 「何がだ?」 「エメリヒの野郎、20人にも満たない隊列に180近い部隊を、ふ! ぶつけて来ましたな! でえい! (やっこ)さん、相当、お館様が恐ろしいと見える!」 「ほ! その通りだ! 出来れば奴が目の前に出てきてくれればいいんだが、せい! 臆病者のあいつには難しいかも知れんな!」  二人の大男、護衛隊長ダミアンと領主グスタフは、襲い来るスカイブルーの布地を纏った兵士――王軍の兵士たちを、赤子の手をひねるかのように易々と斬り伏せながら、半ば挑発するように大声で会話を重ねる。その様子を二人に引けを取らぬ大男、エメリヒ・クレーベは陰鬱な表情で丘の上から眺めていた。  彼は剣の腕は有名だったが、かつては王軍の(いち)下士官に過ぎなかった。それをどういう経緯か今の国王がいたく気に入り、実質的な王軍のトップである将軍に据えたのである。当然、周囲からの(ねた)(そね)みもあったのだが、彼の指揮する部隊は演習の規模を問わず連勝を重ねたため、今はそういった声もほとんど聞かれない。名実ともに誰もが認める将軍として敬われ、畏怖されていった。  そんな彼だからこそ、自身を引き上げてくれた国王に絶対の忠誠を誓い、今回の作戦も粛々と従ったのだが、その心中では決して納得していなかった。グスタフは、祖父の代から自領で行なわれていた街道の整備を国内全域にまで広げることを王に奏上し、商売は活性化した。また、上下水道の整備事業によって奇病で亡くなる住民と、そして工事に人手が必要なこともあって浮浪者も減ってきている。それはグスタフの手柄であると多くの者が知っている。彼がいなければ今の繁栄はないのだ。そして、そのことは誰よりも王が知っていることだ。  その才能を認め、王族が就くものという前例を破ってまで宰相に指名したグスタフを、なぜ、王(みずか)らが排しようとするのか、殺そうとするのか。エメリヒ・クレーベの頭は疑問と苦悩で埋め尽くされていた。だが、王の命となれば完遂するより他、彼には選択肢がない。  故に、万難(ばんなん)を排する構えで包囲し、せめて剣士としての最期をと、弓矢による攻撃を加えなかったが、エメリヒの見下ろす視界では、手塩にかけて育てた兵士たちが次々と斬り捨てられていく。 「この死地、あのときを事を思い出すわ!」 「あれか? お前とボニファーツが死にかけたとかいうムカイヤマの」 「それです!」 「ジルケに救われたんだってな!」 「ええ、あのときのジルケ殿は実に神々(こうごう)しく、戦女神(いくさめがみ)もかくやと思いましたぞ!」 「はっはー! ここにもその女神さまが駆け付けてくれると心強いんだがな! ところで、ダミアン! そろそろ逃げてもいいんだぞ」 「何をおっしゃいますか。お館様より先に逃げるはずがないでしょう。 お館様こそ先にお逃げください!」 「あそこの臆病者が指揮しているんだ。逃げられるはずもなかろう」 「それもそうですな。いつまで経っても降りてこないから忘れておりました!」  その時、大きな、そして長いラッパの音が戦場に響き渡った。グスタフとダミアン、二人を取り囲んでいた兵士たちが潮を引くように斜面を駆け上がってゆけば、その先に見えるはロングボウに矢を(つが)えた矢衾(やぶすま)。  支配する一瞬の静寂。 「お館様!」  音を無くした世界に声が響き渡る。  だが、ダミアンは針の(むしろ)の如くとなり、崩れ落ちた。  やがて音も色も失った世界に再び声が響き渡った。 「エメリヒ・クレーベ! 俺を殺しても何も変わらぬ! 王に伝えよ! この腰抜けめと!」  はたしてその声は伝わったのだろうか。声の主も、じきに矢に射抜かれ、血の海にその身を(ゆだ)ねた。  ――そして世界は暗闇に包まれる。しかし、アルマの存在しないはずの落涙(らくるい)に、波紋の如く色が広がり、森となって再び姿を現した。
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