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白霧之吾 夜の空より紫黒に輝く①
――ぴちゃん。
雫が落ちた音で視界が明らかになると、私は森の中にいた。
草木が仄かに菫色に光る昏い森の中。草や苔に覆われた地面を踏みしめると、そこから小さな光の粒子と蝶が舞い上がっては、儚く消える。
『――』
しばらく歩いた頃、不意に誰かに呼ばれた気がして、そちらへ向かう。
きらきら、きらきら。今にも音が鳴りだしそうな光と共に。
昏い上に霧が立ち込め、視界は覚束ないが、私はこの森を歩いたことがあるような気がして、疑問も迷いも持たずに歩いていた。
そこからまたしばらく歩くと、目の前で霧が渦を巻くように凝縮してゆくのが見える。漫然と眺めていると、それはいくつかの塊になり、じきに6羽の兎となって敵意を向けてきた。
「響け、ドナ・フルーゲ」
私はいつものように、二重に唱えて還魄器を顕現させる。蝶の薄翅を思わせる、黒く半透明な刃の双剣。
兎、といってもその体は通常の2倍ほどは大きい。しかし、ケモノかと言われれば、ヒトの如き目はない。ただの霧の異形だ。何故か白と黒が反転しているオイレン・アウゲンにも不思議とその姿がはっきり映るのだが、やはりケモノのそれではなく、ただの大型で獰猛な霧の兎である。
仮令、相手が見たことのない化け物だとしても、オイレン・アウゲンで視えるのであれば容易い。私の足は躊躇せず、一番近い個体へと向かい右手の剣で貫いた。次は左、その次も左前方、その後は右後ろ後方と、こちらから最短距離で足を踏み出し、次々と斬り伏せていく。致命傷を与えれば、元が霧で出来ているためか、文字通り、霧散して消えた。
霧の兎も残り1羽となったところで、変化が訪れた。右手の剣が届く間合いまで肉薄すると、前触れもなく霧散したのだ。そしてほぼ同時に数カ所で霧が集まり、今度は霧の犬と化した。全部で5頭。様子を伺うように少し離れた距離で右へ左へと、私を中心に回っている。この犬にもやはり目はない。兎と同じく、本来の目玉がある位置には濃密な霧が収まっていた。
ともあれ、ゆっくり歩くものもいれば、やや早足のものもいる。速度は個体によって様々だが、狙っている獲物は私に他ならない。眼前の景色とオイレン・アウゲンで隙を注意深く観察しているとやがて1頭だけが真後ろにいる状況となった。私はこの機を見逃すまいと振り向き、それに駆け寄ろうとしたのだが、自分が思うよりも私の体は随分と素早くその個体に詰め寄り、すぐさま胴体を断ち切った。
そうなれば、あちらも悠長にうろうろしている場合ではなく、比較的近い間合いにいたものから次々襲い掛かってくるが、それは私の狙い通り。瞬時に敵の行動予測を立て、異形の間を音も無く軽快に駆け抜ければ、足跡に残っていた光の粒子と時を同じくして、残り4頭、霧散する。
普通であれば、これで終わりだと思うのだろうが、私の勘が、まだ終わりではないと告げていた。この白い霧が黒靄と同じようなものであれば、ここは霧の異形の材料が大量に存在している場所なのだ。いつ霧の異形が現れてもおかしくはない。
『――』
しかし、私は相変わらず呼ばれているようだ。霧の異形がなんであるのか、皆目見当もつかないが、あちらへ行けば全てが分かる。何となくそんな予感がした。
そして再び歩み出したとき、一際大きな渦が霧を呑み込み、見る間に異形を形作っていく。やがて湯気の如く噴出した霧が落ち着くと、そこにはドラゴンが悠然と佇んでいた。
「お前は誰だ?」
予想外にドラゴンが話しかけてきた。実に人間らしい声と声量で。だが、この声は違う。私を呼んでいるのはこの声ではない。
「私の名はアルマ。アルマ・フォーゲル。あなたの名前は?」
「私には名前など無い」
私が答え、質問を返すと、ドラゴンも律儀に返事をした。このドラゴンははたして何者なのだろうかと、素朴に思う。
「名前が無ければ不便ではないかしら? 親や兄弟は、友人はいないの?」
「親兄弟、友人などいない。不便も感じた事はないな。そもそもなぜ名前など必要なのだ? お前がここで生きてゆくには必要のないものではないか?」
そうだ。確かにその通りだ。私はここで、この森で暮らすのだ。今までも、これからも、この先もずっと。
「そんなのおかしい。名前はとても大切なものだもの。名前が無いなんて可哀想でしょう?」
おかしい? これは本当に私の口から出たのだろうか。名前など煩わしいだけではないか。
「本当に名前は大切なものなのか? 名前が無いことは可哀想なのか? お前は本当にそう思っているのか?」
「……」
私は答えることが出来なかった。本当は、名前などどうでもいいと思っているからだろう。
「そんなに大切なものなら、なぜお前は自分の名前を答えられないのだ。改めて問おう。お前は何者だ?」
「そんなはずはない! 私は!」
ほら見なさい。やはり私は名前などどうでも良かったのだ。ほんの少し前まで答えられた自分の名前が答えられないではないか。出てこないではないか。
そして私は自分の意識が霧と溶け合うことに安堵を覚え、霧が私を侵食してゆく。
――この世界のどこかには、人を喰らう霧があるという。
ふとそんなことを思い出し、なるほど、これが、と得心したが、既にどうでも良い事だ。私は私であって私でないのだから。
本当にこれで良かったの?
どうしてそんな疑問が浮かぶのだろう。これで良いに決まっているでしょうに。
本当に?
私は私でなくなり、あらゆる束縛から解放される。これ以上の喜びなどあろうか。これ以上の喜びなど……。
『アルマさん!』
そのとき、あの声が聞こえた。今度ははっきりと、私の名前を。
『アルマ!』
『アルマ』
『アルマ』
『アルマちゃん!』
『アルマさん』
・
・
・
初めはドロテ様。次に両親。次に閣下とダミアン様。次にオスヴァルト兄様、次に……。一つ聞こえれば、それは様々な音で木霊のように次々と私の森に鳴り響いた。
ああ、そうか。
私の名前は、私はこんなにも皆に愛されていたのだ。
私の名前が、私がどうでもいいことだなんて、子供の戯言ではないか。人を喰らう霧とはよく言ったもの。それはきっと。
「私はアルマ! 私は、私だ!」
溶けかけていた私は叫んだ。昏い森の中で、あらん限りの大声で、あらん限りの息を吐き出して。
そして訪れた一瞬の静寂の後、ドラゴンは身じろぎもせずにガラス細工の如く粉々に砕け散った。そこから現れた紫黒に光る無数の蝶も、やがて儚く消えてゆく。
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