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第2話 幼蝶の薄翅
ジルケに”ケモノ”の存在を明かされて以来、アルマは常に周囲を気にしていた。それは怯えではなく、負けまいとする気概である。しかし、境界が曖昧な生き物の姿を見ることは幸運にして叶わず、稽古に明け暮れて1年が経った。
鈍色の空に阻まれ、降り注ぐ陽の光が心細い4月の或る日のこと。いつも通り裏庭で木剣を振るっているアルマにジルケが優しい口調で問う。
「アルマちゃんや。去年の今くらいの時期に視えた良くない生き物は、まだ視えるかい?」
「ううん。視てないわ。だって、小母様が追い払ってくれているのでしょう? 私、小母様が裏庭から林に入っていくのを何度も見たもの」
アルマの返事に、一瞬、戸惑いの表情を見せたジルケだったが、やがて大きく口を開けて笑った。
「はーはっはっ! アルマちゃんは頭の良い子だねえ!」
突然の大声に怯えた表情を見せるアルマだったが、問いへの返事を続ける。
「でもね、小母様。良くない生き物は視えないのだけど、黒い小さな靄のようなものは見えるの」
それを聞いたジルケは目を大きく開き、アルマに顔を近づけた。
「ほほう。その黒い小さな靄はどこで見たんだい?」
「色々なところに在るわ。本当に色々なところ。例えば、ここから林に入る道に水溜まりのように見えているの。あとは父様や母様、屋敷の使用人、それに小母様にも、たまに小さいのが見えるわ」
「ほうほう。うん、そうか。そうだね……」
ジルケは腕組みしながら目を瞑り、頭をぐるぐる回したり、ゆっくりと上下に振ったりした後、覚悟を決めたようにアルマの目をじっと見つめた。
「アルマ、ケモノと戦う覚悟はあるかい?」
「ケモノはヒトを殺したり建物を壊したりするのでしょう? もっともーっと修行して小母様みたいに強くなったら、もちろん私も戦うわ」
「沢山の痛い思いや、大怪我や、或いは死ぬこともあるかも知れないけど、それでも良いかい?」
「大丈夫よ。私にはとても強い父様と兄様たち、それに小母様がいるもの」
「アルマや。お前の父のフェルディナントは確かに強い。領内でも間違いなく5本の指に入るだろう。それから3人の兄、アウグスト、ロルフ、オスヴァルトも皆、才能に恵まれている。特にオスヴァルトは成長すればフェルディナントをも超えるだろう。だが、あの4人にはケモノと戦う力は無いんだ。戦う術も、ましてや視る事すら適わないんだ」
「そんな……。みんな視えているものだと思ってたのに……」
頼りにしていた父や兄に、ケモノと戦う術が無いと知ると、アルマは明らかに落胆した表情を見せ、心細さからか、今にも泣き出さんばかりであった。
「でも、アルマは幸運だね」
ジルケのその言葉に、一転、アルマはきょとんとする。
「何せ、私からケモノと戦う術を学べるんだ。ケモノが視えたとしても、大抵は戦う術など知らずに、呑まれて気が触れてしまうのだから。こんな幸運は無いよ」
「私、幸運なの?」
つい先ほどまで泣きそうだったアルマは、目を爛々と輝かせてジルケに眼差しを向けている。
「そうさ、幸運さね。加えて私はとても強いのだから、贅沢とも言える」
そう言ってジルケは大袈裟に胸を張るのだった。
「うふふふ。これからも、稽古をよろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしく頼むよ。アルマ」
そう言って、二人はすっかりいつものにこやかな表情で話をする。
「ところで小母様」
「何だい?」
「お稽古って、何か特別なことをするの?」
「ああ、もちろんだよ。通常の剣の稽古に加えて、ケモノを滅する技術を身に着けなくちゃならない。もっとも、初歩が身に着かずに挫折する例も少しばかりはあるのだけどね」
「初歩なのに難しいの……」
「そう、初歩が一番難しいとも言える。例外はあるが、これがなければケモノを滅することは出来ないというものがある。出来なければ、初めの一歩も踏み出せないのが初歩にして深奥、基本にして至高の技、還魄器の具現化だ」
「還魄器ってなあに?」
「ふむ。これは一度見せてから説明した方が早いな。今、やって見せるから、私から少し離れておいで」
「分かったわ。小母様」
アルマが軽い足取りで3メートルほど離れると、ジルケはふぅと息を小さく吐き、静かに凛として唱えた。
「貫け! ハーツアウスシュタール!」
その穏やかな水面のような声は、一人から発せられたとは思えない、高低の入り混じった不思議な響きであった。
その声の直後、ジルケの手から淡く天藍に発光する骨格だけの立方体、八面体、十二面体、二十面体が次々と泡のように現れては消え、やがてそれは一振りの美しくも無骨な、アルマがどこかで見たことのある長く細いツヴァイヘンダーとなった。
じっと両手を握り締めてみつめるアルマの前で、地面から自身の肩ほどまで――120センチを超える大剣を片手で軽々と2,3振り回してみせると、今度は音もなく瞬時にその大剣が消えた。かと思えば先ほどの声をもう一度発する。
「貫け! ハーツアウスシュタール!」
つい先ほどと同じように様々な多面体の泡が現れては消えているが、今度は先ほどとは比べ物にならないくらいの一瞬とも言える時間で、大剣を成した。そしてジルケは大剣を振るうことなく地面に突き刺してアルマに声を掛ける。
「これが還魄器の具現化だ。説明するからやってごらん」
アルマは大剣から目を離さず、無言で首肯する。
「先ずは、そうだね、力を抜くんだ。力んでいたからって成功するものじゃない。……うん、そうだ。次はイメージだ。この還魄器っていうやつはヒトが持つイメージが形になるものなんだよ。しかも普通のものじゃない。死のイメージだ。死を齎すもののイメージだ」
「死を齎すもののイメージ……」
それを聞いた途端にアルマの顔に影が差す。
「そうだ。10歳のお前にはまだ難しいかも知れないが、世界には死が溢れている。食卓に上がる兎、猪や川魚、地面に転がる虫、枯れた草花、そんなものからイメージすると良いかも知れないね。もっとも、それが必要なのは最初だけだがね」
「小母様は何をイメージしたの?」
「私かい? 私は敵兵だよ。若い頃から戦に出ていたからね。この手で何人も屠った、目の前で何人も死んだのだからイメージは容易だったんだよ。この大剣のもとになった私の愛剣を思い浮かべるだけのことだった」
イメージ。それも死を齎すもののイメージ。それは幼いアルマにとって縁遠いものだったが、少し考えた後、死は突如として脳裏に浮かんだ。するとどうだろう。アルマの利き手である右手に、先ほど見た発光する骨格だけの多面体が泡立つように現れたではないか。しかし、その色はジルケのものとは違う、紫黒である。
「小母様! これ……」
「ああ、見ているよ。初めてでここまで出来るなんて、本当にアルマは優秀な子だね。でも、そのイメージを離すんじゃあないよ。しっかりと最後までやり遂げるんだ」
アルマの手元に出現した多面体は、武器の形を成す気配が感じられず、ただ現れては消えるのみであった。
そのことに気付いたアルマは、ジルケの言いつけ通り、より明確に死を齎すものを自身の頭に思い描く。
やがてアルマは、右手で硬質な棒のようなものを握っていたことに気付き、躊躇なく、それを更に強く握る。
刹那、思考がクリアになり、脳裏に何者が発したとも知れぬ言葉が流れ込む。
こういうことか、と本能的に理解したアルマは一片の曇りもなく、その見知らぬ言葉を静かな波紋のように玲瓏と唱えた。口と、心で、二重に。
「響け! ドナ・フルーゲ!」
気が付けばアルマの右手には異形の剣が握られていた。紫黒の柄と護拳部には草花の意匠が施され、そして何より目を引くのがその刃である。
刃渡り100センチほどの黒い刃は、向こうが透けるほど極限まで薄く、幅広い。そして蝶の片翅を長く伸ばし、切っ先に近づくにつれて細くしたような剣身には、仄暗く紫黒に光る翅脈が幾筋も走っていた。
「素晴らしいじゃないか! 流石だよ! アルマ!」
固唾を呑んで見守っていたジルケは、その巌のような顔を崩しアルマを手放しで称賛した。何度も、何度も、誇らし気に。
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