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【最終章 暁天の蝶 】第22話 ケモノ憑き
「父様、母様、兄様方、お久しぶりです。アルマは只今戻りました」
ドロテがカネウラの教会で助祭になった後、アルマはじきにフォーゲル領の実家に戻った。侍女の仕事が終了したためだ。仮にアルマを引き留めるために、侍女より下のメイドの職を用意したとしても、昔からオダ家に仕えているフォーゲル家の者を就かせるなど余程のことが無ければ出来ないのだ。
オダ家の内情はさておいて、事実、アルマはここに在る。領主ランプレヒトの求婚を断ったことと、その理由――スヴァンとの結婚を認めてもらうために。
「駄目だ!!」
ああ、これはいつか見た光景だと、激高するフェルディナントを前に、アルマは他人事のように感じていた。ドロテがランプレヒトに教会入りを申し出た際も、頭ごなしに駄目だと言っていたものだった。あのときと違うのは兄妹の関係ではなく、父娘のそれであることくらいだ。
「何故です!」
血は争えないのか、アルマも負けじと荒々しい声で問えば、返って来たのは実に想定通りの模範解答。
「フォーゲル家が身命を賭してお支えすべきランプレヒト様からの求婚を断り、剰え、どこの者とも知れぬ平民と結婚したいなどと、そんなものを許せるはずがなかろう!」
「私が認めた相手と結婚してはいけないというのですか!」
「そうではない!」
「では、なんだと言うのです!」
「相手が駄目だと言っている! 儂が良い男を何人でも見繕ってやるから、その中から選べ!」
「嫌です!」
「どうして分かってくれないのだ! 父はお前に幸せになって欲しいのだ!」
「あなた、そろそろその辺で……。アルマも、ね?」
「……失礼します」
今まで覚えのない親子喧嘩に心を痛めたのか、母のブリギッテがどうにか声を振り絞って夫と娘を諫めれば、アルマは自分の主張を曲げる気は無いと言わんばかりに、早足で執務室を立ち去った。
それにしても、とアルマは思う。それにしても何故に貴族というものは、一族の女を手駒にするのか。姻戚関係というものは血よりも濃いものになり得るのだろうか。兄に殺された弟の例も身近にあるというのに、姻戚関係に拘る理由など理解できない。
ああ、だからあのスヴァン某と結婚して、この面倒な柵から出来るだけ早く抜け出したいと言うのに、父は私のことを全く理解してくれていないようだ。だが――
……だが?
だが何だというのか?
そうだ。
私は本当にあの男と結婚をしたいのだろうか?
好きなのだろうか?
愛しているのだろうか?
ドロテ様やクリスタ様に唆されて勘違いしているだけはないか?
あの男と家族になりたいのか?
私はあの男を利用して平民になりたいだけではないのか?
……そもそも、結婚とはなんなのだ?
深く、深く、アルマの心は透明度を欠いてゆく。黒い靄に包まれるように。
「――お前さん、心がひどく淀んでいるじゃないか。おおよその想像は付いちゃあいるが、何があったか教えておくれ」
翌日、稽古の最中にジルケがアルマに声を掛ければ、彼女はこれまでの経緯と、煮え切らない自身の胸の内を溜め息混じりに吐露した。
「うん、そうか。私に何かしてやれることがあればいいんだが、そればかりはアルマ。お前さんとその男の問題だから、自分で何とかしなければならないよ。それにしても、あの平凡な男と結婚の約束をするなど、随分と思い切ったことをしたものだね。あんたの容姿ならいくらでもいるだろうに……。しかも、今の話だとそいつは返事をしていないのだろう?」
「え? ……あ、確かにそうね。そうだわ。約束はしたけれど、はっきりとお返事を頂いていない……」
「やれやれ。ま、それについては約束を否定しなかったんだから問題ないだろうさ。あとはお前さんの気持ちだけだ。それさえ乗り越えられれば、フェルディナントも納得せざるを得ないだろうよ」
「そう。小母様、ありがとう」
「ああ。あんまり悩むんじゃないよ。悩んで事態が良くなることなんてないんだから」
さてと、これはしばらく監視しなければならないね、とジルケは内心、溜め息を吐いていた。会話の後も、依然として大きいアルマの黒靄を眺めながら。
だが異変は意外なところからやってきた。
「誰か! 誰か来て!」
それから数日経った或る日の真夜中。今まで一度も聞いたことが無い、母の必死な声でアルマが目を覚まし、急ぎ寝所に駆け付ければ、そこにいたのは憤怒の表情で母ブリギッテに斬りかかる父フェルディナントの姿であった。事態を飲み込めずにいるアルマをよそに、先に駆けつけていたアウグストがフェルディナントの直剣を弾いて対峙し、ロルフがブリギッテを運び出す。
「父上! どうしたのです! 寝ぼけているのですか!?」
直線的な攻撃を、同じく直剣で巧みにいなしながら呼びかけるアウグストに対して、フェルディナントは反応せず、その息遣いが聞こえるのみ。
現実離れしたその異常な光景に、しばし呆然としていたアルマであったが、思い出したかのようにオイレン・アウゲンを展開させつつ、フェルディナントを視ると、そこにいたのはフェルディナントの形をした黒い靄の塊だった。
「これは、ケモノ憑きだな」
いつの間にか隣にいたジルケがぼそりと呟く。その右手には既に顕現させた抜き身のツヴァイヘンダーが握られていた。
「今はともかく終わらせようか」
「でも、小母様、どうやって? 還魄器では父様の体も傷つけてしまうでしょう?」
「見てれば分かる。お前はアウグストと一緒に出入り口を固めな」
そう言ってジルケは前に出る。
「アウグスト! よくやった! お前は下がって出入り口を塞げ! 後は私に任せな!」
出来る限りの大きな、そしてよく通る声に、父を傷つけまいと躊躇しながら戦っていたアウグストが機敏に下がり、すかさずジルケが間に入った。
普段なら有り得ないフェルディナントの大振りを躱し、いなし、間隙を縫ってツヴァイヘンダーを腕に叩きこむ。思わず目を逸らすアルマであったが、再び見れば、切断されたと思われたフェルディナントの腕はしっかりとそこに在り、これもケモノ憑きの特性かと思ったのだが、それは次の一撃で誤解だと分かった。
今度は脚を目掛けて振るわれた大剣だったが、よく見ると刃を立てず、剣の腹で叩いていたのだ。
立て続けに四肢にダメージを与え、敵の動きが鈍くなればジルケの行なうことはただ一つ。
「闇に眠れ。ナハトルーエ」
凛として二重に唱えれば、眼前に現れるは見慣れた神紋の箱。フェルディナントを囲んだ箱が萎んで消滅すれば、そこに残ったのは気を失い、床に突っ伏す男のみ。身体を成していた黒靄は、今やその名残もない。
「父上!」
「父様!」
アウグストとアルマが慌てて駆け寄り、脈を確認。一安心の後に兄妹で協力してベッドに運び、一件落着かと思われたのだが――
「ジルケ殿、父を止めてくれたこと、感謝いたします。しかしながら、父が気を失う直前の現象は一体、なんだったのでしょうか? 私にはジルケ殿が持つ大剣の刃が一瞬消え、時機を合わせるように父が倒れて見えたのですが」
そうだ。視えない者からしてみれば実に不可思議な現象で、疑問に思うのは当然のことだ。どう説明するのかと、アルマは固唾を呑んで成り行きを見守っていたのだが、ジルケは実にあっけらかんと答えた。
「刃が消えるものか。急なことで寝ぼけてたんだろうね。フェルディナントが倒れたのは、さる筋から教わった暗示をかけていたからさね」
「私の見間違いでしたか。それは失礼しました。それにしても戦いながら暗示をかけるとは、さすがはジルケ殿。このようなことが再び起こらないとも限りませんので、是非、私にもその秘伝を教えて頂きたいものです」
「あー、教えたいのはやまやまなんだが、これは女じゃなけりゃ扱えないんだ。諦めておくれよ」
「それは残念ですが、今回のようなことがまた起きてしまった場合には、我々はどう対処すればいいのでしょうか? あれは稀に発生するケモノ憑きという現象ですよね? 父は明らかに正気ではなかった」
男には扱えないと聞いたアウグストは実に残念そうな顔であるが、その横にいたアルマはそのような嘘がよく自然に出るものだと半ば呆れ顔でジルケを見ていた。
「安心おしよ。こんなこともあろうかと、アルマにはこの秘伝を授けてあるんだ。だから、私がいないときは、この娘を存分に頼るといい」
「なるほど。それではいざというときは頼むぞ、アルマ」
「お任せください、アウグスト兄様。ところで小母様。私、ケモノ憑きについてもっと知りたいので、明朝、詳しく教えて頂いてもよろしいですか?」
「ああ、そうだね。それがいい」
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