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第4話 匪石之心
「まだだ」
還魄器、そして滅獣の理の一つナハトルーエを発現させたアルマだが、それ以降、新しいことは教えてもらえず、ひたすらに同じことを反復していた。ドナ・フルーゲの形はほとんどぶれない、ナハトルーエの箱も大きさと場所をコントロールできるようになった。であれば、自分の力がどれだけケモノに通用するのか試してみたくなるのが、武門の性というもの。
故にアルマはジルケに願い出たのだ。ケモノと戦ってみたいと。
だが、その願望は鰾膠もなく断られた。一切の迷いを感じさせずに。しかし、食い下がるアルマにジルケは言った。13歳になったら新しい技術を2つ、教える。それまでの辛抱だ、と。
アルマはその言葉を信じ、通常の剣の稽古に加え、退屈な滅獣の稽古も黙々と続けた。
更に稽古と比べれば大したことのないインターナートでも、アルマはその才を遺憾なく発揮し、常に注目を集めた。その端正な佇まいに加え、剣術の授業で模擬戦などを行なえば、同年代でまともにアルマの相手が出来るのは、領主オダ家の長子ランプレヒトぐらいのものだったのである。もっとも、そのランプレヒトは既にオダ家に使用人として召し抱えられていたアルマの兄、オスヴァルトに剣の手ほどきを受けていたため、同じような剣筋のアルマにある程度、対応できていただけではあるのだが。
そしていよいよ今日はジルケと約束した13歳になる日。
無事に新年を迎えられたことを神に感謝する、ちょっとした儀式をオスヴァルトを除いた家族、使用人たちと共に終えたアルマは、一目散にジルケに駆け寄り言い放つ。
「小母様、今日という今日は言い逃れできませんよ。先だってのお約束通り、私に新しい稽古を付けて下さいませ」
「そうか。アルマは13歳になったんだったね。まずはおめでとうと言わせてもらおうか」
普段のジルケは実に慈愛に満ちた声でアルマに接した。つい何年か前まで自分の鳩尾ほどまでであった少女の背は、あと3年もすれば追い付けるだろうというところにまで成長し、それを素直に嬉しいと思っている。そんな声だ。
「ありがとうございます」
「それじゃ、私の部屋に行こうか。ここでは皆の視線がうるさい」
気付けばジルケとアルマに皆の視線が集まっていた。儀式が終わるや否や駆け出したのだから、当然と言えば当然である。
「え、ええ。そうしましょう」
屋敷の一角、今は兵長を退いた使用人としての立場ではあるが、ジルケは居室を与えられていた。22平方メートルほどの物が少ない質素な部屋。ベッド、机、椅子、引き出しのあるクローゼット、花のない花瓶、古いデザインの鎧兜。そして壁には、部屋の主の還魄器であるハーツアウスシュタールに酷似した一振りのツヴァイヘンダーが手に取りやすい高さに飾られていた。手入れを欠かさず行なっているらしく、その鈍い輝きに衰えはない。
部屋に入るとジルケ自らはベッドに座り、アルマには椅子に座るように促した。羊毛でできた少し厚手のダークグレイのスカート、その端を手で摘まみながらアルマが座ったのを見守ると、稽古のときと同じ真面目な声色に変わる。
「さて、アルマや。お前さんがケモノを初めて目にしたときに、私が教えたことを覚えているかい?」
「もちろん。『心を閉ざすんだ』でしょう?」
「ああ、そうだとも。よく覚えていたものだ」
「でもね、小母様。私、心を閉ざすということがよく分からないの。心を閉ざすってどういうものなの?」
「ふむ。やはりね。……いいよ、約束だ。教えてやろう。自分で身に着けられれば一番だと思っていたが、お前さんの周りには常に慕い、愛し、護る者たちがいる。こうなることを予想はしていたが、なかなかに思い通りには事は運ばないものだ」
「小母様?」
「何でもないよ。老いた女の独り言さ。ところで心を閉ざす方法だが」
「はい」
「それは二つある。一つ目は何者をも信じないこと。誰も信じず、感情も殺し、表面的な人間関係に終始し、それでも満足する」
「とても難しそうね。それになんだか悲しいわ」
「アルマはそう言うだろうと思ったよ。だが、そちらの方が簡単な者もいるんだ。そして二つ目の方法だが」
「ええ」
「心がまるで感じられなくなるほど集中するんだ。何も考えずに、己の鍛えた身体と技術をもって、ただひたすらに、直感と身体の成すがままにケモノを滅する。これは武の一つの到達点とも言えるね。……こっちにするかい?」
「ええ。もちろん」
「アルマ、あんたの覚悟は受け取ったよ。それじゃ早速、明日の稽古からやり方を変えよう」
その言葉に、アルマのスモーキークォーツの瞳は輝きを増し、それを了承と汲んだジルケは話し続ける。
「無心になるにはともかく実践あるのみだ。通常の稽古ではフェルディナント、アウグスト、ロルフと木剣で、そして滅獣の稽古では私と還魄器で打ち合うよ。何度も何度も、だ。覚悟はいいかい?」
「ええ! 望むところです!」
「ま、無理はするんじゃないよ。体を壊したら元も子もないからね」
「分かったわ。ところで小母様。もう一つは何をするの?」
「おや、まだ話してなかったかね?」
「ええ、まだです」
「そうだったか。……もう一つは、お前さんが見たことがある黒い靄。あれを探知する技を教えよう」
「? あれは何かケモノと関係があるのかしら?」
「大いに関係があるよ。いいかい、よくお聞き。ケモノは良くないものだ。そして良くないものはヒトの心から生まれる。黒い靄のようなものは正しくそれだ。だが……」
「それはおかしいわ。だって私は父様や母様、それに小母様にだって視えたのよ?」
ジルケが言い終わる前に、我慢できなくなったのかアルマは口を挟んでしまった。
「人の話は最後までお聞きよ。……だが、黒い靄はあらゆる人間の中に視える。大きさや形に違いはあるがね。だから黒い靄が何なのかは、実は誰にも分からないんだ。それは、私だって例外ではない」
「あら、早とちりしちゃってごめんなさい……」
「今度から気を付けるんだよ。そして、その正体不明の黒い靄は、たまにはぐれて体の外に出る。放っておけばやがて消えてしまうが、他のはぐれた黒い靄と引き合い合体することがあるんだ。それが続き、やがて大きくなるとケモノになる、と言われている」
「言われている? ということは……」
「そうだ。見たことが無いから、これも本当かどうか曖昧なんだ。私も靄がケモノになるのを見たことはあっても、靄が合体し、直後にケモノになったところは見たことが無いからね。ま、これは予備知識に過ぎない。大事なのはここからだ」
ジルケのものかアルマのものか。恐らくアルマのものであろう、ゴクリと唾を飲み込む音が聞こえる。
「その黒い靄は、そしてケモノはどこにいるのか把握できるんだ。自分の心を閉じたまま膨らませることによってね」
「心を……、閉じたまま膨らま……せる?」
アルマはまるで理解が出来ないといった顔で腕組みをする。
「これもイメージが重要なんだが、うーん。……アルマ、毛糸玉は分かるかい? 或いはシフトドレスのような肌着を着たまま水に入ったり、ガラス工房でグラスを作るところを見たことは?」
「毛糸玉はもちろん分かるし、肌着で川遊びしたこともあるけど、ガラス工房に行ったことはないわ」
「水浴びではなく川遊びときたか。やれやれ誰に似てこんなお転婆に育ったのやら」
「多分、小母様の影響よ。父様にもよく似てると言われるもの」
何やらアルマは勝ち誇ったようである。
「ふむ。じゃあ、しょうがないね。ところで、川遊びで体を沈めたときに、肌着に空気が入ってぽっこりとしていたことがあったろう?」
「ええ、今となっては何が面白かったのか分からないけど、小さい頃はそれが面白くて何度も作ったわね」
「つまり、それだよ」
まだ、分からないといった表情のアルマ。
「そのぽっこりとしたのを膨らませるイメージなら、上手くいくはずさね」
「そう! 私、出来る気がしてきたわ。早速やってみたいのだけど、何から始めればいいの?」
「そうだね。いずれは剣を振るいながらできるようになるけど、最初の内はじっとして、目を閉じてやってみるといいよ」
「目を閉じるのね。分かった。目を閉じたらこの次は?」
「そしたら次は、自分の心を肌着のぽっこりだと思いな。イメージ出来たら、頭上から自分を眺めるイメージも持つんだ。そこまでできたら、最後に自分を中心にそれをどんどん広げていけばいい。なんとなく黒い靄の場所が分かったら成功したと思っていいよ」
「分かった。やってみる」
そうしてアルマは目を瞑ったまま大きく深呼吸し、真剣な表情になった。
しかし、しばらくするとジルケはアルマを抱きかかえ、自分のベッドにそっと横たわらせる。
(やれやれ。稽古の途中で寝てしまうなんて、相当疲れてたんだね。今はゆっくりお眠りよ)
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