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【第2章 前蛹 】第7話 人形
ケモノを倒した。
ドラゴンを倒した。
そのことはアルマにとって、とても大きな自信になった。だからといって日常は変わらず、厳しい稽古の日々。まれにケモノを見つけ、ジルケと共に狩りに出るが、初めてのときのように多く、大きくケモノが現れることは一度もなかった。異能があり、ケモノがいるからと言って、他者とほんの少し尋常が異なるだけで、日常というものは簡単に変わるものではないのだ。
だが、変わることもある。16歳になる来年――1569年1月早々からアルマは大都市イヌイの領主屋敷に務めることが決まっていた。領主グスタフ・オダの末娘、ドロテの侍女として。それは滅獣を成したからではない。フォーゲル家とオダ家の関係、クニヒトと領主の関係によるものである。そして、アルマの剣技によるものでもあった。
「私から言うことは何も無いよ。……何だい、その顔は? 分かったよ。何か言ってやるよ。……そうさね、イヌイは人が多い分、黒い靄も多く現れる。だが、意外とケモノは現れないらしい。人が多い故に、はぐれた靄の多くはすぐに他の人間にくっついて行くのさ。もし、お前が向こうでも滅獣を使命と思うのであれば、行き止まりや袋小路なんかの吹き溜まりを警戒するといい」
イヌイ出発の数日前、アルマはジルケの部屋を訪れていた。
「小母様、ありがとう。ところで小さい頃に、『還魄器を出したまま寝るんじゃないよ!』って怒ったことがあったでしょう?」
「ああ、そうだね。そんなこともあったね。……わざわざ私の真似をするんじゃないよ、全く」
「うふふ、似てたでしょう? ところで、あれってどうして駄目なの? 理由が分からないと、いつか具現化したままで寝てしまいそうだわ」
「そうだねえ、……アルマは夢を見たことがあるかい?」
「夢? 寝ているときに見るあの夢?」
「そう、その夢だ」
「当然あるわよ。昨晩は執事服を着たオスヴァルト兄様が、立派なお屋敷で『木人はどこだ!』って慌てて探してたわ。お庭に行けば沢山あるでしょうに、おかしいわよね。うふふふ」
「無いよ」
「え?」
「だから無いんだ。ふぅ、それも教えておかなければいけなかったか。……アルマ。普通、お屋敷の庭に木人は置かれていないんだ。庭の一角に鍛練場があるなら別だが、あるとしてもそこだけだ」
「え? それなら、うちのお屋敷にあるあれは一体? え?」
「ま、その話はもういいじゃないか。話を続けるよ」
アルマはまだ頭が整理できていないようだが、じきに落ち着くだろうとジルケは話を止めない。
「還魄器がイメージの産物であるにも関わらず、実体に干渉できる。つまり、普通の人間や動物、物も斬れるということも、当然、出したまま眠ってはいけない理由だ。だが、それ以上に問題なのが、その夢だ。夢というものも結局はイメージの産物だからねえ。具現化している還魄器に影響が出るんだよ」
「形が少し変わるだけなら大丈夫じゃないかしら? ……あ!? まさか!」
「気付いたかい? そのまさかなんだよ。私は若い頃は同じような異能持つ仲間たちと一緒に動いていてね、ただの一度だけ、仲間の一人が還魄器を具現化したまま寝ちまったことがある。そいつの還魄器はマインゴーシュだったんだが、気が付いたときはもう遅かった。手に握られたままの還魄器の刃が縦に、横に、斜めに、或いは鞭のように形をとどめず次々と変形していった。その後、どうなったと思う?」
「……変形した刃が、その人自身を傷付けたのかしら?」
「半分正解だ。変形を繰り返す間、何度か体を斬りはしたが、深いものではなかった。問題はその後だ。……刃は一瞬だけそいつの姿になり、その後すぐに黒い靄となって霧散した。握られていた柄も含めて、ね」
アルマはとても驚いた表情で固まってしまった。
それはそうだとジルケは思う。還魄器とケモノが元は同じものだと言っているようなものなのだから。いや、驚いているのは『そいつの姿になった』からなのかも知れないが
「そしてそいつは、もうそれっきり還魄器を顕現させることが出来なくなってしまった。ケモノが視えているのに戦えないだなんて、どうすれば良いのかと思うかもしれないが、滅獣の理には還魄器を使わないものも存在するんだ。……だから、お前さんはそんなこの世の終わりみたいな顔はしなくてもいい。そいつは今でも使命を遂行しているはずだよ」
「……それを聞いて安心した。いずれにしても、具現化したまま眠らないように気を付けるわね」
「そうだ。そうしな」
「うん。……いや。はい、そうします」
「私から話すことはもう無いよ。とっとと荷物の準備でもするがいい。あ、イヌイに還魄器持ちがいるとは聞いた事はないが、もし会ったら仲良くするんだよ。組織に所属している奴だったら、私の弟子とでも名乗れば良くしてくれるだろうさ」
「小母様、最後にもう一つだけ聞かせて。組織って何かしら?」
「……組織のことはこれ以上、教えられないよ。秘密なんだ。だが、ケモノを滅する異能を持っている以上は、必ずどこかで出会うだろう。だから、教会が関与している、とだけ言っておこうか」
*
フォーゲル家のお屋敷から徒歩と乗合馬車で西に約3時間。アルマは今生の別れかと思うような両親の見送りを経て、領都イヌイに降り立った。
ダークグレイの立て襟のコート、白いバンドカラーのシャツ、ダークグレイのステイズ――コルセットの原型になった胴着――に同じくダークグレイのスカート。彼女なりの侍女としての服装ではあるが、この時代、この土地の習俗に沿わず、相変わらず頭巾は付けていない。動き回るとずれて邪魔になる、というのがその理由だ。
馬車を降りたら東門から大通りを西に進む。中央の噴水広場に出たら、そこからは北西に伸びるやや細い道に入り、そして曲がり角の多い坂道を少し登ればオダ家の屋敷が鎮座している。
イヌイは、最長で1辺1.5キロメートルを超える城壁に囲まれ、2000平方キロメートルほどもある広大な街である。そこをほぼ端から端まで歩くことになったが、修行で鍛えられていたお陰か、アルマは至って平常通りだ。
「あなたがアルマさんね。父がとっても強いって話してたわ。よろしくね」
屋敷に入ると荷物の整理もそこそこに、高齢の執事長に連れられて挨拶に来た。これから仕える主、ドロテ。当年とって9歳である。
「は! お任せください! このアルマ。命に代えましてもドロテ様をお守りいたします」
少しずれたお堅い挨拶に、この小さな公女はくりくりとした目を細めてころころ笑う。
「あははは! 衛兵さんみたい!」
「あ、これは失礼いたしました。今日このときより、ドロテ様のお世話にこの身を捧げます。何なりとお申し付けください」
今度は及第点だったようで、執事長も胸を撫で下ろしているように見える。
「ヴィンシェンツ、ありがとう。あとはアルマと二人でお話したいの。良いかしら?」
「はい、承知しました。お嬢様」
執事長が足早に、それでいて品の良さを感じさせる歩き方で部屋を出ていった。すると、ドロテはその琥珀色の瞳を一層煌めかせ、アルマに初めての命令を下す。
「アルマさん! そこの椅子に座って! 私と沢山お話しましょう!」
その幼い命令に恭しく頭を下げ、命令を遂行するべく椅子に腰かけるアルマ。矢継ぎ早に繰り出される質問ににこやかに答えながら、改めて目の前の少女をまじまじと観察した。
大貴族であるオダ家の娘であるにも関わらず、その服装はパッと見た感じ、庶民と大差ない。白いブラウスに、子供の服の色としては珍しい色の薄い藍色――白藍のワンピース。そして一族の特徴である弁柄色の髪を包む、フードのような厚手の頭巾。これも白藍である。一見、質素には見えるが、生地と仕立てが上質なものであることは遠目でも分かる。
質問に答えるたびに、何か話題を出すたびに大袈裟にも思える反応を見せるドロテに、アルマは思った。ああ、この子はずっと話し相手がいなくて寂しかったのだな、演技をしてでも私の関心を惹こうとするほどに、と。
そしてアルマは楽しいお喋りの間、ドロテに視える黒い靄もじっと見つめていた。
その巨大さ故に。
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