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第8話 稚き陽炎
(あれは一体なんなのだろう……?)
ドロテに内在する巨大な黒い靄。幼い彼女の胴体を覆いつくすほどのそれは、経験不足のアルマにとって心配の種でしかない。
だが、念のためにと、イヌイに到着したその日の夜、オイレン・アウゲンで探ったアルマは更なる未知に触れてしまう。
(屋敷の中に、大きな靄がもう一つと、それから、これは……、白い炎?)
全く不可思議なものだった。脳裏一面の白い空間にも関わらず、黒い靄の中で白い炎が揺らめいているのだ。それは、今にも消えそうなほどのものが屋敷の中に一つと、ここから南にもう一つ。そしてその近くには黒い靄に包まれていない、否、ほんの小さな黒い靄を内包する大きな、力強い白炎が一つ。
巨大な靄は分からなくもない。だが、白い炎のような揺らめきはなんなのか。今までの知識に掠りもしない。ジルケはオイレン・アウゲンを黒い靄とケモノを視るための異能だと言っていた。しかし、事実、別のものも捉えている。この白い炎は或いは、ジルケの言う『秘密』と何か関係があるのかも知れない、とアルマは予想を立て、そして、この屋敷にある一つはすぐに分かるだろうと根拠もなく予感した。
夜が明けて二日目。ドロテの部屋の近く、広さ30平方メートルほどの個室を与えられたアルマは、日の出よりもほんの少し早く起き、身支度を整える。
侍女の仕度ではない。砥粉色の厚手のシャツとズボン、剣の稽古の身支度だ。朝を逃せばドロテに付きっ切りとなるのだ。稽古の時間は、実質、今しかない。幸いにして領主屋敷には屋内に、正確には屋根のある渡り廊下で本館と繋がった衛兵詰所内に修練場があり、しかも柱時計も置いてある。朝の稽古も行ない、その後にドロテ様を起こす、いや、起床をお助けするお役目も与えられた私には願ったり叶ったりの環境だ、とアルマはほくそ笑んだものだった。
そして、この時間であれば一人で黙々と稽古に励むことが出来るに違いあるまいとも思っていたアルマの目論見は、しかし、扉を開けた瞬間に砕け散った。
現在、朝の5時を少し過ぎたところ。違う土地での初めての訓練にやや緊張しながら扉を開ける。すると30メートル四方はあろうかというその広い修練場には、既に二人の先客がいるではないか。しかも二人とも180センチから200センチほどの長身に分厚い筋肉の鎧を纏っている。一人は知っている。もう一人はアルマの知らない顔。
「おう! お前も来たのか! どうだ、一緒にやってくか?」
知っている顔が爽やかに砥粉色した新人侍女に声を掛ける。この屋敷に務めるならば、出入りするならば、この町で暮らすのならば誰もが知っていて当然の顔。王国宰相グスタフ・オダである。飾らない気さくな言動と、領民の生活の質の向上から人口の増加と国力の向上を図る姿勢は、貴賤を問わず大人気だ。
だが、アルマは思わず顔を顰めてしまった。その言動にではない。黒い靄の、その大きさに、だ。
どうして14歳のインターナートで見たときには気が付かなかったのだろう、どうして昨日の昼間に挨拶したときに気が付かなかったのだろう。いや、気が付かなかったのなら、そのときはきっと普通の大きさだったに違いない。……本当にそうなのだろうか? 自分が見落としていた可能性もあるのではないか?
「お館様、女性が困っておいでなのでその辺で……」
思索に耽り、返事を失念していると宰相閣下の横の男が助け舟を出してくれた。アルマは困っていたわけではないが、お陰で現実に戻ることが出来た。
この男はグスタフよりも大分年上に見える。40歳代後半くらいだろうか。如何にも武人然とした四角い顔をしている。これで一人で落ち着いて稽古が出来る、とアルマが思ったそのとき、今度はその男が声を掛けてきた。
「其処なお嬢さん。君はもしかしてジルケ殿の血縁ではないのかな?」
「ああ、将軍。紹介してなかったが、あれはフェルディナント・フォーゲルの娘だ。名をアルマという。ジルケに剣を教わったらしいぞ」
アルマが返事をするよりも早く、グスタフが説明してしまう。まるで子供が自分の宝物を自慢するように。
「なんと、ジルケ殿の遠縁とは! お館様、それを先に言ってくだされば良かったのに!」
言うが早いか、グスタフに将軍と呼ばれていた男がずんずんとアルマに近寄り、手前2メートルほどのところでぴたりと止まった。
「私の名前はダミアン・カルツ。お館様から兵をお預かりしている者だ。ジルケ殿には昔、世話に……、世話なんてものではないな。命を助けられたことがあるんだ。……君たち兄妹がここに来たのも何かの縁なのだろう。恩返しというわけではないが、困ったことがあったら何でも相談してくれ。出来る限り配慮しよう」
ダミアン・カルツ。アルマはその名前に聞き覚えがあった。7年前の神聖リヒトとの小競り合いを指揮し、最小限の被害で味方を大勝に導いた天才。鉄砲を多数揃えた敵軍に対し、彼の指揮するオダ軍は鉄砲の数の不利をものともせず跳ね返した。
そればかりではなく、個人としての戦闘能力も領内屈指で、グスタフ・オダ、ボニファーツ・バルベ、ヘルマン・カルツ、そしてアルマの父、フェルディナント・フォーゲルと並び称され、五本の指の一指に数えられている。
そのような者を二人も前にして、アルマに秘められた武門の血が騒がぬ理由などあろうか。
「では、この非才に稽古を付けて頂きたく、お手合わせをお願い致します」
「はっはっはー! ジルケ殿の内弟子が非才を騙るか! 有象無象の剣士どもに妬まれそうだな! だが、武人たるものそうでなくてはな!」
アルマは侍女として雇われたことも忘れ、一人の剣士としてダミアン、そしてグスタフに挑み、清々しく完敗した。
その二人に揃って言われたことがある。視界の全てを見ろ、と。思い当たる節はある。鍛練中はいつもの癖で――と言ってもこれも鍛練なのだが、オイレン・アウゲンを展開しているのだ。目で見ている光景と、脳裏の景色がまだ上手く嚙み合わないことがあり、瞬時の判断に遅れが出ているのが分かったのだろう。そうであれば、やることは一つと、アルマはオイレン・アウゲンを平時でも展開し続けてみることにした。
展開しながら静かに、しかし早足で与えられた部屋に戻る。麻のタオルで汗を拭きながら、ダークグレイの一揃いに着替え、母から贈られたラベンダーの匂い袋を腰に着けて身支度を整えた。
既に太陽が顔を出し始め、お屋敷の中の靄にも動きが視える。グスタフと思われる大きな靄は執務室、ドロテと思われる小さな靄は隣の部屋、そして白い炎の揺らめきには動きが無い。
(……小さな靄?)
アルマは目を閉じ、探ったところで疑念を持った。おかしい。昨日の夜までは大きなものだったはずだ。寝ている間にはぐれたのだろうか。それにしては近辺にははぐれた靄も見当たらない。そもそも、黒い靄の話も詳しくはジルケから教わっていなかったし、聞こうともしなかった。これはジルケに文でも認めて、ご教授願うより他ない。もちろん、白い炎のことも含めて、だ。
ボーン……、ボーン……、ボーン……、ボーン……、ボーン……、ボーン……、ボーン……
そうこうしているうちに廊下の柱時計が7時を奏でた。
「ドロテ様。起床なさいましたか?」
居室のドアをノックをして室内に呼びかけるが返事はない。
「ドロテ様。ドロテ様」
再びドアをノックして呼びかけるが、同じく返事がない。オイレン・アウゲンに映る小さな靄にも動きがない。
「ドロテ様。失礼いたし……」
執事長ヴィンシェンツからの言いつけに従い、実力行使に及ぼうとドアのノブに手をかけたそのとき、アルマは気が付いた。小さな白い炎がアルマのすぐ近くまで来ていることに。
(油断していた!)
咄嗟のことに彼女は反対方向に飛び退き、そして白い炎の方向に鋭く視線を送る。
「あ、驚かせちゃってごめんなさい」
そこにいたのは、アルマより少し背が低い少年だった。弁柄色の少し癖のある髪の毛、濃い琥珀色の瞳。間違いなくオダ家の血縁の者。
「これは大変失礼いたしました。私、昨日よりドロテ様の侍女を任されましたアルマと申します」
慌てて笑顔を取り繕い、非礼を詫びつつ挨拶をするアルマに、白い炎の少年も屈託のない笑顔で返す。
「新しい侍女の方でしたか。ボクの名前はシュテファン・オダです。よろしくお願いします」
気のせいか、アルマには少年の炎がほんの一瞬だけ大きくなったように、そんな風に視えた。
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