その向こう側へ

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その向こう側へ

 よく夢に見たものだ。うねりあげる巻積雲(けんせきうん)の雪原をかき分けて、空を(かけ)る白龍の咆吼と、その脊柱から見渡す蒼の景色を。  遙か上空の、まだ私たちが到達しえない距離に、白龍は棲んでいる。万を超える命の雫が一心に降り注ぐ密林や、伝説の水鏡に映し出された幻の一本橋、ありとあらゆる大地を私たち──私と稜太(りょうた)は時空を超えて旅してきた。ただ私たちの最終目的地、白龍の数万キロにも及ぶとされる脊柱に構えられた“龍源郷(デスティニー)”には未だたどり着きそうにない。この七年間で、その状況は全く変わらないばかりか、むしろ悪化してるとさえ言える。その理由の一つが、天蓋と大地の間に(ひし)めく、黄金蝶(コガネチョウ)の増加だ。ただ問題の本質はそこにはないということもまた、私たちには分かっていた。 「ここでも何の情報も得られなかったよ、彩芽(あやめ)」  稜太は天眼山(テンガンザン)の麓にある粗末な宿舎から出てくると、腰の錆びた短剣に手を置いたまま、私の名前を吐く。 「龍は何故僕を拒むのだろうか」  彼の口から漏れた言葉は、最近ではもう殆ど独り言のようになっている。  私たちが随分前から岐路に立たされているのは分かっていた。このままでは選ばれし民のみが居住を許される龍源郷に足を踏み入れるどころか、この穢れた大地から一歩も足を離すことができないのではないかという不安が私と彼の間に流れるようになったのも、最近のことではない。 「稜太、私たちは考え方を変える必要がある」  私は静かに言った。稜太は私の方を向き、物憂げな表情を浮かべる。 「龍源郷への“片道切符(パスポート)”を求めて世界各地を回ったけれど、それらしき手掛かりは一切見つからなかった。そもそもそんなものが存在するなんてこと、あの村長以外誰も言っていなかったし。ということはやっぱり、」  私は息を吸うと一思いに言い切った。 「私たちはまた一から始めなくちゃいけない」  稜太はいつもの癖で右眉を親指の腹でグッと押さえると、素早く息を吐いた。 「……考えても仕方ない。とりあえず、進むか」  稜太は白龍の尾翼の欠片が眠るとされる天眼山の奥地へ向けて歩き出した。私は慌てて彼の(あと)を追う。長い旅路で鍛え上げられた稜太の背中も、今日はややくたびれて見えた。かれこれもう、三週間は私も稜太も風呂に入っていない。  ──やけに森が(うるさ)い。  気付いた時には、既に私たちは深く(あか)い森の荒波に飲み込まれていた。キメの粗い油性塗料のような朱色の奔流は周囲の緑を瞬く間に染め上げると、渦巻きながら私たちとの距離を急速に狭める。私は咄嗟に目を閉じた。葉擦れの毛羽(けば)立った不協和音が私の耳元に無数の(きっさき)を突き立てる。その警告音は波打ち、増幅し、反発しながら臨界点にまで駆け上がると、一気に収束し──  消えた。  私はゆっくりと目を開けた。静寂が降りた朱の森の中で、私はひとり佇んでいた。シンと音もなく降り続ける朱色の花弁と、その間を埋めるように漂う黄金蝶(コガネチョウ)の灯籠の帯。朱と金で塗りつぶされた世界をただ、私は眺めていた。いつの間にか稜太の姿はない。先程まであんなに心が乱されていたにも関わらず、今は何故か、穏やかな気持ちだった。立ち並ぶ幹の間からは眩い金色の光が差し込んでいる。私は誘われるようにその光の先へと歩を進めていた。飽和した光の密度に全身が熱く、(はげ)しく抱擁されていく。 「いらっしゃい」  気付くと私は平凡な雑貨屋の中にいた。木目調の低いカウンター越しに、腰の高さほどの老婆がニッコリと微笑んでいる。屈託のない笑顔。後ろの陳列棚に並ぶ雑貨の輪郭はどこか不鮮明で、焦点の合わないレンズから覗いているかのようであった。 「あれま」老婆はゆっくりと眉を上げた。「これはまた珍しい客人じゃな」 「ここは……?」 「何、心配することはない。ここは、ただの狭間じゃよ」老婆は今にも閉じそうな目で私を見つめた。 「稜太を見かけませんでしたか?さっきそこの森ではぐれてしまって……」  老婆は私の問いには答えずに、何度か曖昧に頷いた。 「お主は、何を求めてここにきたんじゃ?」 「私は……私たちは、龍源郷への行き方を探しているのです」 「そうか」老婆は優しく相槌を打った。私の頬を、()()()涙が伝っていった。 「もうお主は辿り着いておるはずじゃろう?その真実(こたえ)に」  私は力なく膝をついた。残された僅かな力を振り絞って右手を前方に差し出す。その指先は、カウンターの中を儚く通り過ぎてゆく。 「お主の相方は確か五年ほど前に、ここへ立ち寄っておったよ。あやつもまた、お主と同じことを聞いておった。お主はあやつの残影を追って、ここまで来たのじゃろうな。自身の実体が既に失われているとは気付かずに」 「私は……いつから……いつから……」私は嗚咽と共にその場に蹲った。老婆は懐かしむように遠くを見遣った。 「あやつは確か、『数年前惜しい人を事故で亡くした』と言っておったの。じゃが、また巡り会える希望を捨ててはおらんかった」  私は溢れ出る涙の粒を堪えることもせず、老婆に(すが)りついた。 「何か、何か方法があるのですか?彼と、稜太と再び会える方法が!?」 「お主には二つの道がある」老婆は神妙な面持ちで私を見据えた。 「お主は既に、龍源郷への切符を手にしておる。お主が望むのであれば、今すぐにでもそちらへ向かえるじゃろう。先にこの地を後にするのも一つの手じゃ。そしてもう一つは……」  老婆は少し時間を掛けて目を見開いた。透き通った純白の瞳孔が、私の身体を貫いてゆく。 「この大地に留まることじゃ。相方を探したいのであれば、それしかない。ただし、極めて困難な道となる」 「残ります。ここに」  私は即答した。悩む理由などなかった。ここでまだ、やらなければならないことがある。 「()に留まり続ける限り、お主の身体は蝕まれ続ける。最後には跡形もなく消滅してしまうかもしれん。それでも良いのじゃな」 「ええ。忠告ありがとう。でも、もう覚悟は決めました」 「そうか」老婆はどこか嬉しそうに頷いた。もう涙は止まっている。立ち止まっている暇はない。 「……あやつは確か巨人の眠る大嶺山脈の更にその向こう、極東に位置する孤島へ向かうと言っておった。間に合うかは分からぬが、そちらへ向かうと良いかもしれんな」 「ありがとう」  老婆が言い終わるや否や、私は駆けだしていた。朱の森を抜け、黄金蝶の灯りをかき分け、もと来た道を下ってゆく。下へ、下へ。もうここには二度と還ってこれないであろう。それでも構わなかった。ここに未練はない。(いな)、未練をここに置いていくのだ。私は後ろを振り返ることなく走り続けた。私たちの泥足によって踏み固められた、不浄の大地へ向けて。
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