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周囲の燃え盛る火炎地獄の中で感覚を失いつつある俺の脳細胞が、俺に終わりと同時にくれた言葉が、
【そう、俺はこの時の為に、生きていたんだ】
っていう、乾き切った言い訳だった。
高校を卒業できずに引きこもり、それでも親に迷惑かけまいと一念発起の一人暮らしと就労を始めたが、俺は世間でいうところの精神疾患者だったらしい。でも掛かることができないからといって、それを不透明なままにはしたくなくて、ネットで類似の、確証性不明の精神検査を繰り返し、最も多く蓄積した病名は『回避性パーソナリティ障害』と『抑鬱病』と、僅かな『統合失調症』だった。これらは嫌味にも同列トップだった。
いや、こんなの無意味だ。知ったところで、現実が俺を甘やかすことなんてない。でも、それでも、俺には無理だった。働かなきゃ、でも、誰かと何かすることは、人と関わる事は、俺にとって常時毒状態になることだった。
なんでだ。なんでなんだ。なんで、なんでこんな心で生まれてきちまったんだ。もっと、もっと普通に、ありふれた、なんてことの無い、多数派の人間の心で生まれてこなかったんだ。
そうやって責め続ける俺は福祉事務所の自動ドアを出た。左手に情けなく握られた生活保護の申請書類。その面接は、終始市役所職員の憐みの眼で行われ、終いには、同情まがいの言葉で慰められる始末。
恥ずかしかった。情けなかった。自分が、普通じゃない自分が、ただただ、ふがいなかった。
なんで、なんで、俺は、普通に生まれなかったんだ。
――そうか、いいんだ。それでいいんだ。
俺は普通に生まれなかったから、こうやって、お情けを受けられるんだ。ははっ、そうか。それで、それでいいんだよな。
来る日も、来る日も、俺は包まった布団の中で、泣き続けた。自分を呪い責め続けた。叫んだ。笑った。怒った。悲しんだ。また叫んだ――
息、苦しい。生きているだけなのに、なんで、こんな息苦しいんだ。
……そうか、生きているからだ。だって、生きてしまっているんだから、しょうがないんだ。
最低な開き直りだった。頭の悪い言い訳だった。くだらないトランキライザーだった。
「きゃぁっ!?誰か!火事よ!!!」
アパートの外からそう聞こえた時には、何かが物凄い勢いで崩れる音が角部屋の俺の所にまで轟いた。上階の方からだった。
窓を開けて、外を確認する。同アパートの道路側の方で煙が上がっていた。
マジか、俺も逃げなければ――、いや待て、逃げなくて、いいか?
だって火事なんだもん。ならこのまま、火葬してもらおう。そうだ。そうすれば、両親に保険金が入る。迷惑かけた分くらいには、なるかもしれない。てか、俺って保険に入っているのだろうか。ま、どっちだっていい。俺みたいな人間は、生きていたって、社会にも環境にも、世界にも、身近な人たちにとってさえも悪い。だって、ただ排出するだけの生産性のない生き物なんだから。生きる意味のない、無価値な動物なんだから。
――死にたくない!!!
涙が溢れた。溢れて止まらなかった。
なんて馬鹿げているんだろう。死のうと決めた次の瞬間に、生きたいと願うなんて。俺ってやつは、本当に、本当にどうしようもない人間だ。
自室の玄関から転がる様に外へ。見ると、道路に面した反対側の二階部分が煌々と火炎を吹いて、黒煙を吐き散らしていた。
俺は自室と面した隣のアパートの敷地内へと逃げ込み、そこから回り込んで、火事の現場である道路側へと出た。離れていても皮膚をひりつかせ、焼けるような熱気が俺の顔からだを撫でさすった。
「奥さん、あぶない!行っちゃだめだ!」
傍で緑のシャツを着た筋肉質の男性が、一本結びの妙齢の女性を必死に抑えつけていた。男の方は、俺の隣室の人、だと思う。
「でも!あの中に息子が!息子が!」
ああ、よくある。こういうの、ドラマや漫画で、よくあるやつだ。本当に、現実でもあるなんてな。
でも、こういう時は決まって将来有望なやつが、人生これからってやつが、死んではいけない人間が、率先切って火中に飛び込むんだよな。そして死んで、悲劇の主人公として、一時、或いはずっと語られるんだ。そういう状況だ。そういう、優秀で、素敵で、人間として立派なやつが飛び出してい――
――果たして、そんな奴が本当に行くべきなのだろうか?
俺は飛び出していた。見つけたからだ。言い訳を。人生を彩る、最高にして、最後の言い訳を。
だから、水も被らずに、脳みそ停止させて飛び込んでしまっていた。馬鹿だった。愚かだった。間抜けだった。
だが幸い、憐れではなかった。だって、そうだろうとも。
崩れて半分になった玄関にヘッドダイブし、そのまま這って進んでいく。ドラマや漫画みたいに二足歩行で名前を叫びながらなんて、絶対無理だ。だって俺、助ける子どもの名前すら知らないんだし。だから、
ダンッダンッ。ダンッダンッ。
と、地面をぶっ叩きながら進んだ。この音を聞いたら、返事かもしくは何かしらの方法で生存を報せてくれると思ったから。
俺は思わず、立ち上がってしまった。
そして駆け寄った。
息子は一間の隅で、既にうずくまって倒れていたからだ。
その顔の前で頽れ、口元に手を当てる。浅いがまだ息はしていた。助かる。いや、助けてみせる。
――ああ、そうか。
だいぶ煙を吸って、薄ぼんやりしてしまっている俺の脳みそが、教えてくれた。
俺は、この為に生きてしまっていたんだ。来たるべき、この時の為に。この子の命を助けるために。その為の命だったんだ。
へっ。と小さく笑った。
生きてしまっているんだからしょうがない、か。
でも、ちゃんと意味はあった。意味はあったんだ。
ただそれだけで、これまでの不義理の清算が一挙に為された気がした。
「おい!大丈夫か!?」
半壊の玄関から声が届いた。緑シャツの男だった。
俺は声を出そうとしたが、出なかった。代わりに軽く手を挙げて、そのまま走り出した。玄関までは20メートルもない。
煙に咽ばないように息を止め、腕の中の子どもが火傷しないようにしっかりと包むように抱きかかえた。走った。短いのに、なんて長いのだろうか。
走って、つまずいて、顔が焼けて、目が染みて、耳が痛くなって、足の感覚が無くて――
俺は男に子供を渡した。
「君も、さあ!」
男が子どもを抱えた方と反対の手を半分になった玄関の隙間から差し出してくれた。
人に優しくされた。嬉しかった。そんな場違いな感情が不意に湧いた。
俺は、もしかしたらここで死なずに、生きて、もう一度やり直せるかもしれない。もう一度、今度は普通になれ――
男の手は引っ込められた。
玄関が崩れて塞がれてしまったのだ。
俺も反射的に手を引っ込めていた。
道路側の壁から、恐らくだけど、放水がぶつかって消滅する振動がした。
ああ、でも、俺は間に合わない、かな……
俺はその場に蹲って、ゆっくりと目を閉じた。
死ぬ。そう、俺は死ぬ。
もう、それを肯定するような、慰めるような言い訳の言葉も出てこなかった。
でも、これでいいんだ。
誰かを助けた。命を守った。社会の、環境の、世界の、いや、身近な人の役に立てた。
ただそれだけが、けど、ただのそれが良い訳が、今やっと分かった気がしたんだ――
目を閉じていても眩し過ぎると分かるくらいだった外の世界に、重い影がふっと圧し掛かってきたのが分かった。
――なんてな、はは。
それさえも、ただのいいわ――
――。
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