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「たかが百万円ぐらいだろ?」
夫は、わたしに向かって言い放った。
ネクタイを緩め、スーツをソファーに投げ、そこにどかりと座り、足を組みながら。
口からは酒の匂いを漂わせ、顔全体が真っ赤になっている。
とても散財をした人間の態度とは思えない。
時計の針は深夜二時を指していた。わたしはパジャマの上に羽織ったカーディガンを体に強く引き付けた。
この時間まで夫が帰宅しないのは珍しいことではない。付き合いだとかなんだとかいって、飲み歩いているのだ。まあ、浮気もしているのだが、そのことについて大した怒りはない。どうでもいい人間が何をしようと、正直興味がない。
でも、わたしは怒っていた。
「たかが百万円?」
わたしは眉根を寄せた。
「ああ、たかが百万円だろ?」
言いながら、手にリモコンを持ち、テレビを付ける。
……たかが百万円。
わたしはその言葉を脳内で反芻させた。
その百万円は子供の将来のために貯めておいたものだ。浮気相手に貢ぐために、用意したものではない。
夫の稼ぎが良く、あるいは元々が金持ちであるとかで、自分のお金を勝手に使う分には特に何かを言うつもりはない。
だが、そうじゃない。
わたしもフルタイムで働いているが、夫は飲み代やらゴルフ代やら嗜好品を購入するなど散財のせいで、家計は収支がほぼ同じ状態だった。場合によっては赤字だ。貯金はわたしがへそくりで貯めていた子供の将来の分ぐらいしかなかった。
だから、この百万円の重たい。わたしにとっては、だけど。
その、かき集めるようにして貯めた百万円を、この男は「たかが百万円」と言い放った。
たかが百万円。
言葉が脳内でリフレインする。
わたしは夫にばれないように、凶刃な笑みを漏らした。
待っていた、この時を。
この人はわたしのことをなめ切っている。わたしがこの人を捨てるわけがないと、意味不明な自信を持っている。
わたしが先にこの人に惚れたから。わたしが浮気について何も言ってこないから。わたしがこの人を甘やかしてきたから。
理由は色々あるだろう。それが意味不明な自信につながっていることは、簡単に推察できる。
でも、それは過去の話だ。人の感情は流動的だ。時が流れれば、感情は良くも悪くも変わる。
特に、わたしにとって子供の誕生は自分の過去を省みるいい機会となった。
だから、間違いに気が付いた。自分が如何に愚かだったか、ということを子供に教えてもらった。
わずか半年の小さな命が、わたしを目覚めさせたのだ。
わたしは細く長い息を吐いた。
「わかった。たかが百万円だよね」
「さすが、話が分かる奴だな」
「百万円なんて、はした金だよね」
「そうそう。百万円なんて、はした金だ」
「百万円なんて、簡単に手に入るよね」
「簡単、簡単!」
「じゃあ、明日の朝までに百万円、持って来い」
わたしは自分の内側に秘めていたパンドラの箱を開け放った。この人に対する愛情なんてものはもはやない。ゼロだ。むしろマイナスだ。許されるなら、ここでこの人を消し去りたいぐらいだ。
今あるのは憎悪と嫌悪だけだ。
「てめえ、何言ってんだ!」
夫が顔を真っ赤にしたまま、わたしの前に立ちあがった。顔が赤いのは怒りのせいだろう。
ちっさい男。
わたしは心の中で唾を吐き捨てるように言う。そして、薄ら笑いを浮かべる。でも、目だけは笑わない。その顔を見て、夫が少し身を引いた。
わたしがあなたにとって聖人君子だとでも思ってた? だとしたら、あなたはわたしのことをまるで見ていない。
「何を怒っているの? 怒るってことは、できないってこと? あなた言ったよね、たかが百万円だって。だったら、明日の朝までに持ってこれるよね? それともできない? できないなら、できないって言ってもらってもいいけど、たかが百万円なんでしょ、あなたにとっては」
夫が何かを言おうと口を開く。それを手をぱちんと叩いて制する。
「ごめんなさい。わたしとしたことが。あなたにとって、百万円なんて大した額じゃないんだから、明日の朝まで待つ必要なかったよね。今日の正午にしましょう! それでいいよね?」
わたしは目を見開いたまま、夫を見据える。
「な、何言ってんだ!」
「たかが百万円なんでしょ? それとも、大金?」
夫が追い詰められているのを感じる。わたしから反撃されるなんて露ほども思っていなかったのだろう。
笑えてきてしまう。刃をちらつかせながらゆっくりと近づくのは、脅しのためでしかない。相手を屠ることを考えるのなら、刃を隠し、背後に回り、一気に喉を掻き切る方が可能性が跳ね上がる。
わたしはずっと刃を心に隠し持っていた。この人を一刺しする瞬間を待っていた。
そして、めった刺しにできるこの時を。
「用意できない? できる? どっち?」
わたしは知っている。この人にこの聞き方をすれば、どう答えるかを。だって、わたしはあなたをきちんと見てきたから。
「よ、用意できるに決まってるだろ! たかが百万円だ!」
「そっか。それならよろしくね。わたしは寝るから」
わたしはカーディガンをソファーに投げ捨て、寝室へと向かって行った。体が熱を帯びている。
夫には見えなかっただろうが、わたしは顔いっぱいに笑みを浮かべていた。
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