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正午になった。わたしは鼻歌を歌いながらリビングへと向かった。さて、夫は百万円を用意できただろうか。まあ、知れたことだけど。
リビングに入り、ソファーに座っている夫を見つけた。そこには勝ち誇った笑みを浮かべた夫の姿があった。
わたしはテーブルを挟んで対面に座る。
「ほら、たかが百万円だ」
テーブルの上に札束が投げられた。ドン、という重たい音がした。夫にとってはどう聞こえたのかは知らない。
「そうね、たしかにたかが百万円ね」
わたしは札束へと手を伸ばす。夫はそれを咎めたりしなかった。札束を数えつつ、本物かどうかも確認をする。
どうやら、本当に百万円を用意したようだった。
夫は立ち上がり、したり顔でわたしのことを見下ろした。勝った、などと小さな男が小さなプライドを守れたことに満足しているのだろう。
「きっちり百万円だね」
「な、言っただろ、たかが百万円だって。俺にとってははした金なんだよ。これでわかったか!」
「そうね」
わたしは札束をテーブルに丁寧に置いた。
途端、わたしの目からは涙が零れ落ちた。
面白すぎて、笑えてしまったから。
笑うことはさすがに自重していたけれど、我慢しきれなかった。面白すぎて、愉快すぎて、おかしすぎて、何より哀れすぎたから。
本当だったら、声を上げて、お腹を抱えて、涙をまき散らしながら笑いたいところだ。
そしていよいよ、笑いまで漏れてきてしまった。
「な、何笑ってるんだよ。気持ち悪いな」
「あら、ごめんなさい。あまりにも滑稽だったから」
「滑稽?」
夫の眼光が鋭く光った。
わたしはテーブルを叩いて笑いたかった。この段階に至っても、気が付かないらしい。
「あなたにとっては、たかが百万円なのよね」
「そうだって言ってるだろ! だから、こうして百万円をたった一日で用意できた!」
夫が札束を握りしめ、わたしに見せつけてくる。お金は丁重に扱うべきだ。特に、自分のお金ではないのなら。
「たかが百万円、だもんね」
「何が言いたいんだ!」
「じゃあ、明日も百万円、用意してね」
夫の目が点になった。自分で想定していなかった言葉がわたしから飛んできたからだろう。
でも、それも一瞬だった。
「何を言ってるんだ、てめえは!」
まるで癇癪を起した子供のような、加減を知らない怒鳴り声だった。子供がせっかく寝たのに、起きてしまうからやめて欲しい。
でも、それを咎めるのはやめた。面白過ぎたからだ。夫の反応があまりにもわたしの思惑通りだったから。もう、これを楽しもうと決めていた。散々、わたしの心を踏みにじってきたのだから、最後ぐらい喜劇の主人公になってもらわないと気が済まない。
わたしはそれと真逆の余裕綽々といった感じで、笑みを浮かべて見せた。
「だって、たかが百万円なんでしょ? それなら、明日も用意できるでしょ?」
夫が言葉に窮する。自分の言葉で苦しんでいる。
「違うなら、違うって言ってね。百万円は大金だ! 自分には用意なんてできない! そう言ってね」
わたしは煽る。夫はわたしを見下している。そんなわたしに対して敗北を宣言するような真似はしてこない。小さな男の小さなプライドがそれを許さない。
夫は呼吸を整え、余裕を見せたいのか、笑みを浮かべて見せた。口の端がぴくぴく痙攣しているのが、面白過ぎた。抱腹絶倒だ。笑い転げまくりたくて仕方なかった。
「た、たかが百万円だ。用意してやるよ!」
夫はそれだけ言うと、携帯を握りしめながら、外へと逃げて行った。
それにしても、哀れだな、と思う。そして、浅はかだな、とも思った。
わたしがこれを毎日続けるつもりだと、なぜ気が付かないのだろうか。
たかが百万円。
一度なら用意するのはさほど難しくないだろう。けれど、それを毎日となれば不可能だ。いつかは限界がくる。
そして、夫の場合、その行為を続ければ続ける程、自分の価値を失墜させていくことになる。
夫にはお金がない。つまり、誰かから借りるしかないのだ。貸してくれる人がいたとしても、一度や二度ぐらいがせいぜいだろう。
そして、それと比例するように、夫は人から信用を失っていくだろう。
なぜなら、嘘をつかなければならないから。
間違っても、妻から百万円を用意しろ、と言われているなどとは言わないだろう。だから、噓をつかなければならない。
そして、嘘はいつか露呈する。ましてや付け焼刃の嘘だ。露呈しないわけがない。たとえ、露呈しなかったとしても、わたしが暴露してしまえばおしまいだ。
そうしたら、その先に待っているのは人間関係の崩壊だろう。人間関係は終焉を迎え、夫は本当の意味で一人になるだろう。
それこそが、わたしの真の狙い。
それこそが、わたしの復讐。
あと何回続けるかは、夫の反応で決めることにする。続けられないと判断した段階で、わたしは子供と共に家を出る。
そして、二度と、関わらずに生きていく。
~fin~
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