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一
「恭親、今日はまたずいぶんと顔色が悪いよ」
後ろから肩を抱くようにして覗き込んできた袴姿の女――羽矢緋影にそう言われて、天玄院恭親は溜め息をついた。しかし緋影はおかまいなしに恭親の隈を指先で撫でる。触感はなかった。ただ、かすかにひんやりとした冷気を感じるだけだった。
恭親は首を振って緋影を追い払った。
「緋影さんが寝かせてくれないからでしょう」
少しうんざりしたように言うと、緋影がクスクス笑った。
「なんですか?」
「今のセリフ、恋人みたいじゃないかと思ってさあ、フフ」
からかうようにニヤついている。恭親は顔をしかめてむっつりと押し黙った。緋影のほうはというと、余計面白そうにその表情を見ていた。
「照れてるのかい、恭親。可愛いねえ」
「馬鹿言わないでください。……ほら、ここですよ。着きました」
今日二人がやってきたのは、閑静な住宅街の一角だった。駐車場が比較的広い、四階建てのアパートの一室に依頼人の自宅がある。敷地に入り、恭親は階段を上り始めた。その背中に寄りかかるようにして、緋影が宙に浮き上がる。重さはまったくないが、多少は邪魔だった。恭親は眉をしかめた。緋影の上機嫌な鼻歌が耳に入る。
「どこの部屋だっけねえ」
「三◯四号室です。……緋影さん」
「なんだい、恭親」
「今日はずいぶんと絡んできますね」
「そうかな? そうでもないと思うけどねえ?」
「……ほら、もうどいてください。この部屋です」
恭親が手を振り払うと、緋影はひらりと宙返りをして地面に降り立った。ブーツの爪先が音もなく着地する。同時に恭親はインターホンを押した。
「はーい。あっ、ああ! 祓い屋さんですよね、ちょっと待っててください」
通話口に出たのは若い女の声だったが、こちらから名乗る前に一方的に切られてしまった。どたどたと室内を走ってくる音が聞こえる。隣の緋影が肩を竦めた。
「ずいぶん慌ただしい女の子だね」
「あ、どーも、こんにちは」
玄関に出てきたのは茶髪の女だった。染めてから時間が経っているのか、根元が黒くなっている。化粧も派手で、部屋着らしきショートパンツから伸びた脚は素足だった。女はじろじろと恭親の顔から全身を見回し、「入ってください」と促した。
しかしとりあえずそれには答えず、恭親は名刺を取り出しながら尋ねた。
「浦井京夏様でお間違いないでしょうか」
「あ、ハイ。そうです」
「この度はご依頼いただき誠にありがとうございます。天玄院恭親と……」
「ああー、まあ、ここもなんなんで、中入ってください」
恭親の口上を遮り、浦井は室内へ戻っていった。取り出した名刺を溜め息混じりにしまい直す恭親を、緋影が笑っている。恭親は靴を脱いで部屋に上がった。
「失礼いたします」
「おい京夏、マジで呼んだのかよお」
中に入ると、廊下の先の居室から、今度は男の声が聞こえた。「なんだ、彼氏がいたんだねえ」と緋影が可笑しそうに言う。なんとなく白々しいその言い方に、気付いていたんだな、と恭親は思った。
人間というのは、一般人、祓い屋に関わらず、皆呪力を持っている。呪力が負の感情で練られることによって、呪念が生まれるのである。呪力を操ることのできる者が祓い屋になるのだが、祓い屋は生きている人間に内包されている呪力までは感知できない。その点、霊体である緋影は細かい呪力察知もできるらしかった。よって、この部屋に依頼人以外の人物がいることも、最初から知っていたと見える。
ついでに言えば、呪力には個人個人によって違いがあるらしいというのも、緋影談だった。「指紋みたいなものだねえ」と以前話していたのを、恭親は思い出した。
部屋の奥からは言い争うような声が続いている。
「だってさあ、なんか気持ち悪いじゃん。お祓いしてもらっとこうよ」
「だからってうさんくせえモン呼ぶなよな、部屋上げて大丈夫かよ」
やりにくいな、と恭親はげんなりした心持ちだった。それでも表情を繕って、室内に入る。
「失礼いたします」
雑多な部屋だった。脱いだ服や使いかけの食器類が置いたままになっていて、とても客を迎える様相にはなっていない。中央に置かれたソファに男が座っていて、浦井と言い合っていたが、恭親が入ってきたのに気づいてこちらを振り向いた。さも怪訝そうに眉間に皺を寄せている。その右足には、最近怪我でもしたのか、ギプスが巻かれていた。
「この度はご依頼ありがとうございます。天玄院恭親と申します」
「は? 天玄院? お前天玄院か?」
突然、男が身を乗り出してきた。今度は腰を折りかけていた恭親が不可解な顔をする番だった。男と目が合う。肩幅が広く、頬骨の突き出た造形が特徴的で、髪には剃り込みが入っている。記憶の糸が手繰り寄せられていく。
「……!」
男が何者なのか思い出した瞬間、恭親の表情が凍りついた。
「うわ、やっぱお前、天玄院だ。んな名字、そうそういねえもんな」
「え? なに信介、知り合い?」
「高校のときおんなじクラスだった。ていうか、マジかよ、お前今、こんなうさんくせえ仕事してんの? ぎゃはは、信じらんねえな。おい京夏、除霊なんかやったってマジで意味ねえぞ。だってコイツ、エセ霊能力者だからな」
ソファの上で爆笑している同窓生に、恭親は頭を抱えたい気持ちだった。視界の先では緋影がにやにやと笑っていて、恭親はますます絶望的になった。
(今日の依頼人が金村信介と繋がってるって知ってたから、あんなに機嫌が良かったんだな)
緋影が散らかった床の上で軽やかにターンした。舞台の踊り子のようだった。華やかに広がる羽織や袴の裾を見ながら、恭親は純粋に早く帰りたいと思っていた。
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