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「あれえ、代金も貰わずに帰ってきちゃったのかい?」  アパートから出ると、頭上から緋影が降りてきた。ひらひらと花弁のようだ。空中で颯爽と回転して、恭親の隣に着地した。  恭親はネクタイを緩めて息を吐いた。寝不足と相まって、頭痛がし始めていた。  緋影がクスクスと笑う。 「ずいぶん疲れているねえ」 「……当たり前です。俺の力で祓呪したのなんか、久し振りだ」 「フフ。頑張ったねえ、恭親」  よしよしと、恭親の頭を撫でる仕草をする。反応を返す余裕もなかった。恭親は俯いた。 「もう、帰って寝ます」 「料金もとれなかったし、疲れただけか。骨折り損だね、今日は」 「……金なんかどうでもいいです、もう。早く帰りたい。……それに、なにより――」  恭親は立ち止まって、アパートを振り返った。ちょうど三◯四号室のあたりだ。洗濯物を干していたり、植物を飾っていたりするベランダに混ざって、三◯四号室だけが恭親の目に異様と映った。ぞっと寒気が走った。  柵から溢れんばかりなほどに太った呪念が、窓に貼りついている。無数についた小さい目が室内の様子を舐めるように眺めていた。恭親は身震いした。先ほど、あの呪念の姿を捉えてしまったときのことを思い出した。びっしりと生えた目玉に一斉に見つめられたときのあの怖気。恭親はさっと振り返って自分の腕をさすった。本当に熱が出始めていた。頭がだるかった。 「……あれ、緋影さんの仕業でしょう。あんなもの、どこから引っ張ってきたんですか」 「さて、なんのことかねえ」 「あんな置き土産しておいて、金なんか取れないです」 「フフフ、いい子なんだね。恭親」  背後の緋影が肩上から抱きしめてきた。恭親は抵抗しなかった。自分の体が冷たくなっているので、相対的に、緋影の霊体が温かいような感じがした。  とぼとぼと重い足を引きずって、恭親は帰っていった。  後日、この一件からしばらく経った頃、このアパートの駐車場で、発進しようとしていた一台の新車が謎の炎上事故を起こした。  乗っていた持ち主の男は全身に重度の火傷を負ったということだったが、それは恭親の(あずか)り知らぬことである。
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