その声は忘却のかなた

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 僕はいつも絶望する。  声を上げて分かってほしいのに、胸がつかえたようでただ声が出せないだけなのに。誰もそれを分かってくれないことを。 「どうしてそんな乱暴者なのだ」  真っ暗な肌寒い蔵の中は天井が高い。悪いことをしたらすぐに閉じ込められるここは、いつも遊びに行く製材工場の貯木場のような湿った木材の匂いがして一番嫌いな場所。いやだなあ。悪いことしたのは僕だけど、ここだけは勘弁してほしいよ。高いところにある丸い窓から聞こえるのは機嫌の悪いお父の声。早く機嫌なおらないかなあ。  小学3年生に上がったお花見の時期に、知らない小母さんがやってきて僕をしょうちゃんと呼んで歯を見せて笑った。いつもやって来るたびにお菓子をくれるけど、歯が汚くて嫌い。一緒に家にやってきた丸刈りの中学生のトシは、お父がいないところで僕のことを「ショッタレ」と言って蹴った。アッタマくる。テレビのメイオウジャーだったらあいつのことぶん殴るのに。だから僕は蹴られると黙って便所に逃げ込む。 「しょうはどこへ行ったんだ。おい、どこへ行ったんだ」  僕が便所に隠れると、いつも引き戸の向こうからお父の怒った声が聞こえた。トシが悪いんだ。いつもそう叫びたいのに、僕は声が出なくて地団駄を踏む。仕方ないから僕は耳をふさいで、ただじっと引き戸が開くのを待ち続ける。  どうしてみんな分かってくれないんだろう。僕はただみんなに嫌われたくないだけなんだよ。 「あれえ、ショッタレがみつかんねえ」  中学校の教室の一番後ろ。腐った水の匂いが充満する掃除用具入れのロッカー。まだクラスメートがほとんど残っているのに、ここが僕の居場所になる。スチールの壁の内側はボコボコで、まるでキッチンタイマーが時間を伝えるように定期的にスチールの壁が外側から叩かれ、蹴られ、割れるような轟音に僕は身体を折って耳をふさぐ。 「何でもいいから、話してね」  中学生最後の年の冬に逃げ込んだ保健室で、優しいサツキ先生が耳元で励ます。あいつらには内緒の逃げ場所。布団の中で僕はゆっくり身体を丸める。寒かった身体が優しく包まれる。嬉しいなあ、あったかいなあ、ここにずっといていい? サツキ先生。  ベッドと先生を隔てる白いカーテン。その向こうでサツキ先生の低い声がひっそりと聞こえる。あの子何にも喋らないから、何にもしてやれない。サツキ先生そんなこと言わないで。僕は頑張ってるんだよ。    苛立ちを隠せない足音が襖の向こうを近づいてくる。ずいぶんと張り替えていない黄ばんだ襖が開いて、丸盆に乗った食事が畳を滑って置かれる。癇癪をおこしたような捨て台詞を垂れ流しながらまた廊下を去っていく。僕は悔しくて布団の中で憤る。お父に伝えなければいけない。僕は大丈夫だから。大丈夫だから早くここから出してほしい。  病室の窓から曇った白い明かりが入り込む。遠くの工場の薄い白い煙が見える。背もたれを上げたベッドにもたれ窓の空を見上げる。羽ばたいていきたいのに、身体のあちこちにつながれた管が邪魔をする。いつから置かれたのか分からない林檎の饐えた匂いがしている。  ここはどこだ。一体いつから僕はここにいるのだ。  僕はただ、大きな声でみんなに伝えたいだけなのに。僕は本当は幸せになりたいだけなんだよ。だからそんな顔しないで。みんな気が付いてよ。  そして僕は思い出す。  薄暗い膜の中でぼんやりとした淡い光が満ちている。心地よい体温とゆりかごのように揺れる自分の身体。ここには誰もいない。  大いなるやすらぎの中、やわらかな壁の向こうで話す声が聞こえる。  早くこっちへ出ておいでね。僕たち楽しみに待っているからね。  激しい幕開けの音楽が鳴り響き、重く垂れていた緞帳が上がっていく。薄闇の世界から、光り輝く出口へと僕は押し出された。  ああ、そうなんだ。僕はずっと長い間忘れていたよ。  自分がこんなに大きな声を出せること。その声にたくさんの人が笑ってくれること。  ウウウワアー、ウワー、アー。  生まれ落ちる喜びに、僕は心から叫んだ。僕は幸せだよ。 「わたしのあかちゃん」  涙の跡が残る母の頬に、僕は顔を埋めた。    (了)
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