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1 遠野幸紘の日常 ①
スマートフォンが四時五〇分に震え、小さな鈴の音を響かせる。カーテンの隙間から見る窓の外はまだ夜の一番暗い時間のままだ。
「体……おも」
今日を乗り切れば仕事は一段落するはずだ、と幸紘は昨日会社に残してきたCAD図面の束を思い出す。画面に触れて音を止め、ゆるゆると起きる。自室の暗闇のここそこで何かが蠢く気配を感じる。それが何かはわかっているが今は相手をしている心身の余裕はなかった。
ベッドサイドに座り、アンダーリムタイプのスクエアの黒縁眼鏡をかける。デスクチェアの背もたれにかけられた作業服にのろのろと袖を通し、煙草とスマートフォンと財布を肩掛け鞄に入れて背負う。服も下着も昨日倒れ込むようにして眠った時の姿だったが気にしない。今日は幸紘しか出社しなかった。
足音を忍ばせて静かに暗い階段を降りる。
ダイニングキッチンはしんと熱を落としていて、炊飯中を示す炊飯器のランプだけが点灯していた。冷蔵庫を開け、オレンジ色の常設灯だけを頼りに先週の末に買いためておいたゼリー飲料とプロテインバーを取り出す。たしかもう一つ二つあったはずだが無くなっていた。
「あいつの仕業か。クソッ」
幸紘は小憎たらしい妹の加奈子の顔を思い出して舌打ちすると、ばたん、と少し強めに冷蔵庫を閉めた。
バリアフリー対策でごくごく静かに閉まる自動施錠の玄関の扉を出ると、電柱にたった一個取り付けられた弱い外灯の蛍光灯光を目指して駐車場へ向かって歩く。
視線の先には大きな石鳥居とそこから御社殿に続く石畳がある。日が暮れてから次の日が昇るまで境内、特に随神門より先には入ってはいけないと父親である浩三には昔から厳しく言われていた。出来ることなら幸紘だって暗い境内など通りたくはない。暗闇のここそこに息づくものの気配を感じるし、木立のいくつかに巣を作っている梟や鷺が鳴き声を上げるのだってなんとも気持ちが悪い。それに……。
大きな石鳥居の前で幸紘は立ち止まる。
淵上神社と書かれた扁額の先、手入れの行き届いた重厚な御社殿の方からどうにも威圧的な気配を感じる。これが一番恐ろしい。だが神社の敷地を通らないと自宅から車が置いてある駐車場にはたどり着けない。幸紘は鳥居から御社殿へ続く石畳を足早に横切った。
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