1 遠野幸紘の日常 ②

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 自宅は十年前に建て替えられた三階建ての近代家屋だ。その最上階の一室が幸紘の部屋である。  最上階から一階へ続く階段は、光取りの窓からの日差しも今の時間ではまだ無くて薄暗い。一段一段下りるにつれ、階下からのご飯や味噌汁、焼いた魚の脂っこい匂いがだんだん強く漂ってきて、幸紘はこみ上げる吐き気に口元を押さえる。構造上リビングダイニングを通らなくては玄関へ出られないようになっていて、この時間だと家族の誰かとは顔を会わせることになる。地獄の谷へ向かうような気分になった。  無視して足早に出ていく方法も考えたが、ダイニングに幸紘が姿を見せるとコンロ前に立っていた母親の光子がすかさず声をかけてきて捕まった。 「あら、珍しいわね。今起きたの? おはよう」  ダイニングテーブルの上には旅館よりも品数と量の多い食事がすでに並んでいた。むわっとする食べ物の匂いに幸紘はげんなりした。年々、食事の中身がボリュームアップして、満漢全席の様相をみせている気がするが、幸紘は口に出さなかった。 「おにぎり……むすんでくれる? それ持ってすぐに出るから」 「いつも何時から仕事始めてるのかしらないけど、定時始業は七時三十分なんでしょ? 七時過ぎにここ出たって間に合う距離なんだし、今が年末だって事情がなくったって早くに出て遅くに帰ってくるから家族と顔を合わせてもいないじゃない。ゆっくり朝ご飯食べて行きなさいよ」  ほら、と具の少ない味噌汁がどん、と幸紘の前に出てくる。跳ねた一部がナイロンのテーブルクロスの上に水たまりを作った。  飲みたいかと言われると飲みたくはないが、飲めないかといわれるとそうでもない。幸紘はのろのろとダイニングテーブルの席に着くと、渋々椀を両手にとってちびちびと味噌の溶けただし汁をすすった。 「なんだ、今日はゆっくりしているな。おはよう、幸紘」  白い上衣と紫地に紫の家紋が入った袴姿の浩三が一階の寝室のほうからやってきた。光子は浩三が席に着くと、自分も食事の席に着いた。  地獄だ、と幸紘はこれから始まる会話の中身を思う。塩っぽい味噌汁が苦みを帯びてきた。
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