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ぱしゃん。
きらきらと水しぶきを上げて淵から人の姿が飛び上がって現れた。
人魚だ、と幸紘が見間違えた神様が両腕を伸ばす。嫋やかで、柔らかい、白い手が幸紘の頬を包み、淵の水底と同じ濃い黒緑色の涼やかな瞳で金の瞳を愛おしむ。
「なんて顔、してんだよ」
白い単衣に身を包んでいた体がくるっと空中で前転して初めて出会ったときの水干姿になる。幸紘は見上げた。
「寒いから寝てたのに」
「いや……怒ってるのかと、思って」
「なんで?」
「媛がそんなこと、言うから」
「もう過ぎたことだろ。お前のその腕の件は言いたいこともあるけど」
「やっぱり怒ってるじゃないですか」
「勇気と無謀を一緒ごたにしてるところをな。お前に守ってもらわなくても俺は大丈夫なの。媛程度には負けねえよ。年はこっちの方が上なんだ。見ただろ? ユキは壊れたら死んじまう人間で、俺は丈夫な神様なの」
「でも怪我をしたじゃないですか」
幸紘は神様から視線を逸らすことなく立ち上がりその左腕をとった。袖の中に隠された白い手には治りきらない刃物傷が生々しく残っていた。赤い肉断裂の跡に幸紘は身震いする。
「放っときゃ治る」
神様は幸紘からぷいっと視線を逸らす。その態度にかちんときて、幸紘は思わず声を荒げた。
「放っとけません! 実体があるってことは、病気にかかったりするのもあるってことでしょう。破傷風にでもなったらどうするんですか? 切り落とされたら? また生えてくるんですか?」
「死にゃあしねえよ」
「そういう問題じゃない!」
幸紘が吠えると、神様は丸く見開いた目を瞬かせて見た。
退廃的な欠損芸術というものがないわけではないが、幸紘は神様にその姿を求めなかった。何一つ欠けることなく、完成され、鮮やかに息づき、凜としてそこにあってほしかった。
「あなたが神様で、強くて、俺なんかに守ってもらわなくても大丈夫だなんて、わかってるんですよ! でも俺は、そんなあなただとしても、あなたを守りたいって、あなたを失いたくないって、そう思ったんです。自分にその『力』があろうと、なかろうと、関係なかった。……結果的には、その『力』が、あったんですけど……」
最後の言葉はだんだんと勢いを失って、幸紘が俯いたことでまったく聞こえなくなった。
幸紘の中に眠る獣声の『力』は大地を揺るがし、空間を支配した。結果的には神様を救ったが、そんなものが自分にあったという事実を嬉しいとは思えなかった。媛の口ぶりでは神様は能力など知らないまま幸紘が一生を全うするのを望んでいたのだから。
神様は眉尻を八の字に下げて幸紘を見上げる。手を伸ばし、長い前髪に触れ、泣きそうな幸紘の目を見つめた。
「俺が、この『力』を知ってしまったの、怒ってますよ、ね?」
「怒ってるわけじゃねえよ」
「だって」
「困ってただけだ。思い通りにはいかねえな、て」
神様は幸紘の胸に額をとん、と当てた。
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